BONUS

未来へ向けた視点を提案する
エッセイ
障害者と考える身体
(1) 他者の目で見る
文・伊藤亜紗

医療や工学の発達によって、人間の身体は、この数十年で爆発的に多様化する可能性がある。再生医療を用いれば、ピアスの穴を開けるくらいの気軽さで指の数を増やせるようになるだろうし、眼球にPCを埋め込む日はそう遠くないだろう。キャラクターやロボットなど、身体そのものではないけれど身体と同じようにコミュニケーションのインタフェースとしての機能を果たす物体やイメージが、数の上では、「自然な」人間を上回る時代が来るかもしれない。こうした身体の多様化(というより「身体的なもの」の領域の拡大?)の時代を前にして、自分とは違う身体的条件を持つ人の世界のとらえ方や感覚のあり方を想像する力を鍛えておくことは、社会をマネージしていく上できわめて重要だろうと思う。私は美学の研究者として、社会の身体的想像力の強化に一役買うことができたらと思っているが、しかしその仕事は美学というより生物学の範疇なのではないか、とも思っている。なぜサケは遡るべき川が分かるのか? ヒトデはどうやって「歩いて」いるのか? 種をまたいで自分とは異なる身体的条件をもつ存在に関心をもち、それについて人々が想像できるように助けること——古典生物学の仕事とは、まさにそういった「他なるものへの想像力の陶冶」であった。しかし生物学の中心が遺伝子工学によって占められるようになって以降、生物学は人々の想像力にかかわることをほとんどやめてしまったように見える。ならば、人間の「亜種」のようなものが多様化しつつある時代のなかで、その空白を、美学によって埋めることはできないだろうか。ただし、そのためには、普遍的で抽象化された「身体一般」をめぐって論を組み立てることをしてきた美学の限界を、超える必要が出てくる。「この身体」と「あの身体」の違いを論じる美学というのは可能なのだろうか……?

前置きが長くなってしまったが、この連載ノートは、「多様な身体に対する想像力をきたえる」という大目標を据えつつ、指が6本ある人やロボットではなくて、障害者、なかでも視覚や聴覚に不自由を抱えている人にとっての世界のあり方や感覚のあり方に迫っていく。障害者に焦点を当てている理由は、それが私にとっては現時点ではもっとも身近な「異なる身体」をもつ存在だからである。目を使わないこと、あるいは耳を使わないことが、世界の把握の仕方をどのように変え、感覚やあるいは身体能力をどのように変えるのか。私は最近、研究の一環として、障害のある方と関わったり対談を行ったりしているが、この連載では、そのなかで気づいたことや考えたことを研究ノートとしてまとめていく予定である。個人的な経験やエピソードをベースとした研究方法なので、物語を媒介にして身体を語ることがあるかもしれない。物語の力を借りることは、コミュニケーションの場面では非常に有効であると考えているが、それが美学という学問として、あるいは生物学として、どこまで可能なのかは現時点ではわからない。そういった方法論上の問題も含めて、この連載を通じて考えてみたいと考えている。なお、障害者との対談の一部は私のウェブサイトにて公開しているので、必要に応じて参照していただきたい。

ソーシャル・ビュー

連載の初回となる今回は、視覚に障害がある人の「見方」をとりあげたいと思う。それは、私が視覚に障害がある方に関心をもつきっかけとなったあるイベントに関係している。

そのイベントとは、2013年12月に水戸芸術館の現代美術センターにおいて開催された、「session!」というワークショップ形式のイベントである。このイベントは、現代美術センターが2010年から年に1、2回のペースで開催しているもので、「視覚に障害がある人と一緒に美術鑑賞をすること」を目的としたものである。私が参加した回は、そのとき開催中だった展覧会『ダレン・アーモンド 追考』を鑑賞しようというもので、集合場所には視覚に障害のある方6名ほどを含む30名ほどの参加者が集まっていた。

目の見えない人がいったいどうやって美術鑑賞するのか? 誰もが疑問に思うところである。通常連想されるのは、「彫刻作品や作品の立体模型を、手で触ることによって鑑賞する」というものである。実際、現在でもこうした触覚を通しての鑑賞は頻繁に行われており、80年代まではほぼこうしたタイプの鑑賞しかなかった。村山知義の息子であり、童話作家として活躍する村山亜土らが1984年に松濤に創立した美術館「ギャラリーTOM」は、その代表であるといえよう。ギャラリーTOMの創立理念は「視覚障害者のための手で見るギャラリー」であり、彫刻作品を中心に現在でもさまざまな作品を借り受けて企画展を開催している。

しかし、今回水戸芸術館に集まった人々を待っているのは、ダレン・アーモンドというイギリスのアーティストによる、映像を中心とした展覧会である。映像や絵画や写真、あるいはインスタレーションのような「触ることのできない」作品を、目の見えない人はいったいどのように鑑賞したらよいのだろうか。目を使わずに視覚芸術を鑑賞することなどできるのだろうか。

その答えは、session!が「視覚に障害がある人美術鑑賞」ではなく「視覚に障害がある人と一緒の美術鑑賞」をうたっていることにあらわれている。つまりここで行われているのは、見えない人と見える人が「一緒になって」作品を鑑賞するというスタイルなのだ。イベントの参加者は、まず6名程度の小グループに分けられる。各グループには1〜2名の視覚に障害のある方が混じっている。ロビーで軽く自己紹介をし(見えない方にはメンバーの名前と声を一致させてもらう)、グループごとに移動して、決められた順路にしがたって所定の作品3点程度を約1時間かけてじっくり見ていく。めざす作品の前に到着すると、参加者はその作品について言葉にし始める。「3メートルほどのスクリーンが見える範囲で3つあり、それぞれに映像が映し出されています」「一つは雨が降っている様子、二つ目は人々が水に飛び込んでいる様子」「飛び込んでいる水はあんまりきれいじゃないです」…… そうやって会話をしながら、見たものを言葉にしていくのだ。ときどき、見えない人が質問を投げる。「飛び込んでいるのは大人?子供?」見える参加者が答える。「子供です…… とっても楽しそうで…… インドかどこかの国かな。」

つまり、session!において視覚障害者は、触覚などの感覚を使わず、純粋に言葉で、コミュニケーションを通じて作品を観賞——ディスカーシヴに「見る」という意味でむしろ「観」賞の字を当てたい——するのである。従来の触覚を用いた鑑賞が「ビュー・バイ・タッチ」であるとすれば、ここにあるのは「ソーシャル・リーディング」ならぬ「ソーシャル・ビュー」であると言うことができよう。触覚を通して作品を知覚しようとすることは、否応無く個人的な経験になってしまう。それはそれで一つの鑑賞方法だと言えるが、この「ソーシャル・ビュー」は、みんなで見ること、コミュニケーションを通して見るという方法である。そこにあるのは、作品の物理的な特徴を細部まで知ろうとすることから、作品が与える印象やそこから生じた思考を共有することへの転換である。見える人と見えない人が、観賞のスタート(作品の物理的な特徴)ではなく、作品のゴール(印象や思考)を共有するのである。

こうした「ソーシャル・ビュー」が日本で始まる発端には、白鳥建二さんという全盲の男性の個人的な活動があった。彼は、大学生のときに知人と展覧会に出かけて作品を楽しむことができた経験から、「盲人でも絵画鑑賞ができる」と考え、その後九〇年代後半に、さまざまな美術館に掛け合って美術館スタッフと一緒に展示を見てまわる、という活動を始める。そもそも美術館にはそのような制度はなかったので、そのつど個人的に交渉をし、美術館に意図を理解してもらう必要があった。徐々に彼なりの方法を見出していくうち、障害のある人たちの芸術文化活動を促進するための団体「エイブル・アート・ジャパン」(会長=嶋本昭三、2011年よりNPO法人)が99年に白鳥さんと共同企画でワークショップ「ふたりでみてはじめてわかること」を開催。そのときの参加者やスタッフを中心に2000年にMuseum Approach and Releasing(MAR)が発足。2000年代中頃にかけて「ソーシャル・ビュー」のツアーを30回以上開催する。同時期、2002年に京都でもミュージアム・アクセス・ビューの活動が始まり、さらには各地の美術館へと、「ソーシャル・ビュー」は全国的なひろがりを見せる。水戸芸術館のsession!も、白鳥さんのアプローチをきっかけに始まったそうした活動の一つである。その後、林建太さんが、MARの活動や水戸芸術館の活動を参考にしながら、2012年に任意団体「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」を設立。すでに下火になっていたMARの活動を引き継ぎつつ主に展開する形になった。「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」は首都圏の美術館を中心に、すでに30回以上のワークショップを開催している。

参考:
視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ企画「みえる人とみえない人の「井戸端鑑賞―オリジナル音声ガイドをつくろう!」(東京都現代美術館 春のワークショップ2014)によって制作された音声ガイド

再構成としての観賞

誤解してはならないのは、こうした「ソーシャル・ビュー」で行われているのが、「見える人が見えない人のために作品を説明する」という「サポート」ではない、ということである。何しろ見える人だって、いま、初めて作品を前にしたばかりで、解説者としてはあまりにも頼りない。特に映像作品の場合、つぎつぎとイメージが変化するので頻繁に訂正が起る。「えっと…さっき太陽って言ったのは実は月でした」「これは何だろうな、すぐにはわからないですね。ざらざらした感じ」など、見える人も手探りで作品を言葉にしようとする。そしてこの「作品の理解のようなものに向かって手探りで進んでいく」というライブ感こそ、「ソーシャル・ビュー」が提供する貴重な経験である。見える人だって、ふだんは作品を言葉にする作業を常にやっているわけではない。「何となく」見ているのである。ところが見えない人が隣にいると、なかば強制的に考えを言語化してアウトプットすることになる。すると、見える人もよりよく「見る」ようになるのである。見えない人が見える人にとっても助けとなる、いわばウィン・ウィンの関係である。「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」主宰の林建太さんの言葉でいえば、そこにあるのは、見える人と見えない人のあいだの「揺れ動く関係」★1である。「サポート」が前提にするような固定された上下関係はそこにはない。

この方法で頻繁に美術観賞をしている全盲の男性が筆者に語ってくれたあるエピソードを紹介しよう。彼が美術館のスタッフの方、つまり毎日のようにその作品を目にしている方といっしょに、印象派の絵画を作品を観賞していたときのこと。そのスタッフはまず「湖が見えます」と説明した。しかししばらくして、「さっきのは野原でした」と訂正したのである。湖を海と間違えるのならまだしも、貯水池としての「湖」と、草が生えた土地である「野原」は、自然物としては似ても似つかない別個のものだ。しかし正しい解説を求めているのではなく、その人なりの解釈にたどりつこうとしている以上、こうした間違いこそが面白いと全盲の男性は言う。「この絵には野原が描いてある」という事実だけなら、視覚障害者でも本を読めば分かることだ。しかし「湖に見えた野原」「湖のような野原」という迂回は実際に人と人が会って会話をしてこそ起きるものであり、このライブ感こそ観賞なのだ。そして確かに、湖と野原の混同という出来事は、きわめて絵画らしい、しかもすぐれて印象派の絵画らしい出来事ではないだろうか。写実主義の絵画では起きなかった誤解が印象派だから起こったのである。このような経験は、彼にとって「見える人についての見方」を変えるものでもあったという。

もっとも、「ソーシャル・ビュー」における観賞は、通常の意味での観賞とは順序が逆だ。通常はまず作品があって、それを味わったりそれについて考えることが「観賞」である。しかしここでは、まず見える人が作品について発した「言葉」、厳密にいえば間や語調も含んだ「会話」がまずあり、見えない人はその「言葉」「会話」から、それがどのような作品か再構成するのである。ところが、ここで非常に興味深いのは、見える人にとっても、実は「観賞」とは「再構成」である、ということだ。見える人も、まわりの人の解釈を聞いたり、あるいは自分で言語化の努力をするなかで、作品の見え方がどんどん変わっていく。通常、美術館で声を出すことは奨励されておらず、観賞は個人的な出来事になりがちだ。しかし「ソーシャル・ビュー」において「しゃべりながら見る」経験をすると、参加者はコミュニケーションの経過とともに作品の見え方が劇的に変わっていくことに気づく。もちろん、作品が物理的に変化するわけではないのだが、見え方が変わるのだ。session!終了後にある参加者が口にしていた言葉でいえば、「それぞれが自分の頭の中で作品を作っている」のであり、このいわばコンセプチュアルアートのような次元においては、見える人も見えない人も変わらない。つまり見えようが見えまいが、観賞とは本質的に、コミュニケーションを通じて作品を想像力のうちで再構成することなのである。ここにこそ、見える人と見えない人が「いっしょに見る」ことの深い本質がある。そこに生まれるのは、上下関係を含んだ「サポート」ではもちろんなく、お互いがお互いにとって役立つような「ウィン・ウィン」の関係さえも超えて、自分の行為の本質を気づかせてくれる「鏡」のような関係に、見える人と見えない人がなるということだ。見るとは実は他者の目を使って見ることである。事実としてある障害を軽んじるつもりはないが、器官としての目が見えようが見えまいが、人は他者の目を使ってものを見ている。この事実を、「ソーシャル・ビュー」は私たちに実感させる。

このような「他者を使って見る」は、美術観賞に限ったことなのだろうか。これがこのノートを通して検証してみたい仮説の一つである。

(写真=視覚障害者とつくる美術鑑賞観賞ワークショップ、イラスト=伊藤亜紗)

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http://asaito.com/research/2014/04/post_14.php
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