BONUS

未来へ向けた視点を提案する
エッセイ
障害者と考える身体
(6) DIYとレディメイド
文・伊藤亜紗

前回のエッセイを掲載していただいてから、半年以上もあいだがあいてしまった。休んでいたこの半年は、齋藤陽道さんとの筆談トークイベントをひらいたりその齋藤さんも出場する障害者プロレスを見に行ったり、この1年ほど行ってきた見えない人についてのリサーチをまとめた新書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社、2015年4月)を出版したり、見えない人と研究会を始めたり、BONUSの企画に呼んでいただいて脳性まひ当事者の方とお話する機会を得たり、「自分の身体は他者の身体をどこまで理解できるのか?」の限界に挑戦する「楽しい修行」をひたすらしていたように思う。修行はまだまだ続きそうだけれど、「障害者と考える身体」連載第二期(と勝手に命名)では、その成果を少しずつ文章にしてきたいと思う。今回のエッセイでは、「DIY」という切り口で、障害のある身体との関わり方について考えてみたい。

「やり方」を自分で作る身体

障害のある身体の生き方とそうでない身体の生き方。「生き方」というとちょっと大げさかもしれないが、「基本姿勢」みたいなものの違いをひと言で言うならば、それはDIYかレディメイドかにあるのではないだろうか。健常者の身体は、さまざまなインフラや社会システムと自分の身体の「合わなさ」の度合いが少ない。たいていのお店で自分の身体にあった服を買うことができるし、渡されたメニュー表を見て選ぶことができるし、学校でもスムーズに授業を受けることができる。つまり、すでに用意された既存のやり方を踏襲すれば、ひとまずは望んだ目的に到達できるのだ。もちろんいつも100%満足というわけにはいかないかもしれない。けれども、困難を覚えるほどではない。既製品でOK、要するに「レディメイド」に乗っかって生きていくことができるのだ。

ところが障害のある人はそうはいかない(というより、それこそが法律上の障害の定義である★1)。お店に入っても身体にあう服がなかったり、ひとりで試着することができなかったり、服の色が分からなかったり、そもそもお店に入ることができない身体の人もいる。そうなると、既存のやり方ではうまくいかないので、自分にあったやり方を見つけなければならない。合わない服をカスタマイズしたり、肌触りを重視して服を選んだり、人に選んでもらうことをむしろ楽しんだり。目的を達成するやり方を、自分でDIY的につくりあげなければならないのだ。福祉とは、障害者のDIYを助ける社会制度であるべきである★2

触り心地で白い服と黒い服を見分ける

たとえば先日インタビューしたTさんは、明るさが分かる程度の視力しかないため、代わりに触覚を使って、同じ型の白いブラウスと黒いブラウスを「見分ける」のだと言う。Tさん曰く、「白いブラウスの方が柔らかく、黒いブラウスの方がごわごわしている」。同じことは巻かれた状態の木綿糸についても言えるそうで、彼女は手で触ることで、どちらが白でどちらが黒か判断することができる。確かに白い糸と黒い糸では用いられている染料が違うのだから、物質レベルで、つまり触覚で捉えうるレベルで、その違いを識別することは可能だろう。(もっとも、赤やピンクなど白と黒以外の色では分からないという)。

このTさんの能力を「柔らかさに白という色彩を感じる」というような共感覚的な力として理解することは早計だろう。Tさんは二十代まで見えていたので、「白」や「黒」を見た記憶を持っている。だから柔らかいブラウスをさわって「白」を思い浮かべる可能性はあるが、それは事後的に形成された観念連合にすぎない。重要なのは、「白いブラウスと黒いブラウスを見分けること」という日常生活の中でできれば達成したい目的があり、そのためにTさんは「触り心地で見分ける」という彼女ならではの方法をDIY的につくりあげた、ということだ。実際、その方法を見つけるまでに、白いブラウスと黒いブラウスのどこかに違いがないか、目印になる差異はないか、探索する過程があったという。匂い、ボタンの形状、皺の入り方……等を調べた結果、触り心地という彼女にとって有意な「やり方」を見つけたのだ。

障害のある人がDIY的につくるこうした「やり方」は、レディメイドで事足りてしまっている健常者の感覚からするとしばしば意外で、面白く、発見に満ちたものである。面白い、などというと怪訝な顔をされそうだが、形ばかりの配慮を超えて障害のある人の具体的な身体に接近するためには、そんな態度が重要なのではないかと思う。もちろんDIYには時間や労力の面でコストがかかり、その苦労を軽んじるつもりはない。けれど、障害のある人の「やり方」に触れるたびに、健常者である自分がいかにいろいろなことを「作らないで」済ませてしまっているか、そのせいでいかに創造性や批判精神がさび付いてしまっているか、気づかされるのである。先の拙書は、言って見れば視覚障害者によるDIY集のようなおもむきもある。背表紙を手で触って欲しい本を探し出したり、足の裏で電車の走行を認識したり、耳で周囲を眺めたり……。この連載の2回目のエッセイでも強調したように、「見る」は決して目の専売特許ではないのであって、健常者が「見る」という働きにカテゴライズしているさまざまな仕事は、たいていは目以外の器官を使ってもできるのである。

DIO(Do it Ourselves)

このように障害は人のDIY精神を否応なく要求するファクターであるわけだが、障害を引き受けるのは何も障害の当事者のみではない。健常者が自分以外の人が抱えている障害を引き受ける場合もあるのであって、そのような場合には、(ふだんはさびつかせてしまっているかもしれない)創造性や批判精神を一気に活性化させて対応することになる。DIYならぬDIO(Do It Ourselves)の精神である。

他者の障害を引き受ける人といえばまっさきに思い浮かぶのは、介助に携わる人びとである。介助職が資格化され、技術が等級によって計られるようになったとしても、レディメイド化しきれない部分、すなわち個々のニーズに応えるDIO的な部分が必ず残るのが介助の仕事だ。しかし、そのような福祉的な関係だけが、他者の障害を引き受けるやり方ではない。障害を媒介として、ある場に参加する人びとを創造的に結びつけるDIO的試みは、すでにさまざまになされている。

そのひとつが、この連載の1回目でソーシャル・ビューと名付けた美術鑑賞のスタイルである。そこでは見える人と見えない人がチームとなって作品の前にたち、見える人が口にする作品の情報や印象を手がかりにして、共同作業的に作品の解釈を構築していく。見えない人がいるからこそ見える人は自分が感じた印象を言語化するのであって、見えない人にも分かるように説明の表現を工夫するなかで、印象に輪郭が与えられて行く。あーでもない、こーでもないと解釈をさぐっていくプロセスは、1人で作品を鑑賞するときには絶対に味わえないライブ感に満ちており、まさに障害が「触媒」になる好例である。

見えない人とゲームで遊ぶ

ソーシャル・ビュー以外にもDIO的試みはある。筆者が最近参加したのは、視覚障害者とともにコミュニケーションゲームを楽しむイベントだ。「ダッタカモ文明の謎」など見えない人も見える人も遊べるゲームを開発している会社が企画したもので、自社開発のゲームの他、さまざまなゲームをみんなで遊ぼうというイベントだ。

この日の目玉ゲームだった「ダッタカモ文明の謎」は触覚を用いた連想ゲーム。遺跡から発掘されたという設定の小さな陶器製の駒(球が3つ連結していたり、円錐形だったり、形はさまざま)に対して、博士役のプレイヤーが何かを思い浮かべる(たとえば「三色パン」「クラッカー」)。その他の学生役のプレイヤーたちは、「博士、それは食べられるものですか」などYES/NOで答えられる質問を順に投げかけて行く。その答え等を手がかりに、学生たちが博士が思い描いているものを当てる、というゲームだ。触覚を用いた推理だから、見える/見えないに関係なく参加することができる。明確な勝ち負けのないコミュニケーションを楽しむゲームで、筆者もすっかり熱中してしまった。(ちなみにイベントの開催時間はたっぷり5時間!)

こうした見えない人も遊べることを前提に開発されたゲームももちろん楽しいのだが、面白いなと思ったのは、そこが一般的なゲームをプレイする場でもあったことである。つまりバリアフリー的な配慮のない普通のゲームであっても、プレイの仕方を工夫をすれば、見えない人でも楽しめるんじゃないか、というちょっと強引な(?)チャレンジも奨励されていたのだ。イベントの冒頭、企画者の濱田隆史さんが口にした言葉がとても印象的だ。「テレビゲームではルールがプログラミングされてしまっているので変えることができない。けれども人が相手で行うゲームの場合は、参加者に応じてその場でルールを作り替えることができる。そこがいい」。

たとえば、見えない人はカードの数字を読むことができない。だったらカードを配るかわりに数字を推理するようなルールに変えてみる。あるいは、色をそろえなければいけないルールのときに、色ではなく形をそろえるルールに変更してみる。変えるのはルールばかりではない。コマやパーツが文字通りDIYされることもある。質感の違うシールが貼られたり、厚さを変えられたりと、レディメイドの製品たち文字通り作り替えられていくのだ。

ゲームをプレイしながらゲームじたいを作り替えて行く。それは確かに子供のころは自然にやっていた遊びというものの本質で、遊びにおいては遊びの中身がどんどん書き換えられていくのである。レディメイドから距離をとり、それを創造的に、ときに批判的に乗り越えて行く態度。近年注目を集めているインクルーシブデザインのような活動とも、ゆるくつながるものだろう。

伝えるために伝える内容を変える

創造性が要求される場面は他にもある。やり方を教えたり伝えたりする場面である。障害のある人とそうでない人は、同じ目的を達成するにしても「やり方」が違うのだから、自分がやっていることをそのまま伝えても、それが相手にとって必ずしも有効とは限らないのだ。たとえばある場所から駅までの道順を、見えない人に教える場合。見える人が相手ならば「角のマクドナルド」や「正面に見える看板」を目印に教えることができる。しかし、言うまでもなくその「やり方」は見えない人には通用しない。頭の中で、「パチンコ屋の音」や「パン屋の匂い」に注目しながら、いままでにやったことのない歩き方で駅までの道をシミュレーションしなければならない。見えない人に「変身」したつもりで世界を観察し、相手が使える「やり方」を見いだすこと。もちろん、それはなかなか難しい作業だ。

これは、コミュニケーションとしてはなかなかユニークなコミュニケーションである。なぜなら、何かを教えたり伝えたりするために、全く別の内容を伝えなければならないのだから。いわば「A」を伝えるために「あ」と言わなければならないような事態。しかしそうしたことが、異なる条件を持った身体間のコミュニケーションではしばしば必要になる。それは創造的な営みだと筆者は考えているが、人によっては「そんなのコミュニケーションではない」という見方もありうるだろう。異なる条件を持った身体どうしにとって、「伝える」とは何か。あるいは「理解する」とは何か。今後じっくり考えていきたいテーマである。

★1

一九八〇年ころからの障害学の高まりとともに、障害を「個人モデル」ではなく「社会モデル」でとらえるという視点が広まった。個人モデルにしたがえば、「目が見えない」といった個人の身体的な欠損が障害とされるが、社会モデルによれば「見えないことで希望の仕事に就けない」等の社会の側にある壁が障害だとされる。二〇一一年に公布•施行された改正障害者基本法では、障害は「社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」と定義されている。

こうした社会モデルについてはさまざまな批判もある(たとえば星加良司『障害とは何か』、生活書院、2007を参照)。筆者自身は、社会モデル的な視点は必要であるが、それだけでは不十分であると考える。ユニバーサルデザインのような社会的バリアをなくす配慮が、かえって「配慮のコンプライアンス化」を生み、障害者のニーズから乖離していくとう問題もある(ユニバーサルデザインの問題については川内美彦「追い込まれるニーズ」『知の生態学的展開:技術』東京大学出版会、2013年など。)バリアをなくす適切な努力は不可欠だが、それでも障害者とされる人とそうでない人の違いは残り続ける。その違いを楽しむ視点や方法を開発することが必要であるというのが筆者の考えである。

★2
本文で、健常者の生き方を「レディメイド」という産業社会と結びついた言葉で形容したのは偶然ではない。なぜなら、「障害」という発想の成立じたいに、産業社会の発展が関わっているということがしばしば指摘されるからである。産業社会においては、均一な製品を速く大量に製造することが重視され、労働内容の画一化が起こった。「誰が作っても同じ」であること、つまり「交換可能な労働力」が必要になったのである。障害概念の成立は、この交換可能性に適応できるかどうかという区分けの成立と関係している。
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