BONUS

未来へ向けた視点を提案する
エッセイ
障害者と考える身体
(4) 伊藤亜紗×木村覚 メール書簡
Date2014年9月14日
From木村覚
To伊藤亜紗

伊藤亜紗さんへ

いつも原稿ありがとうございます。第1回では「ソーシャル・ビューイング」、第2回では「目以外で見る」ことと、目からうろこの落ちるとても刺激的な視点を届けて下さいまして、毎度感謝しております。伊藤さんとは息子とともに同じ屋根の下で暮らしていることは読者のみなさんが知るところでしょうし、事実、原稿が送られる前に何度も「今度の原稿のことなんだけど……」と食卓の話題として聞いたりしているわけですから、かしこまった形でメール書簡するのはおかしいようにも思いますが、今回は編集者と書き手のやとりとしてまじめにメールをお送りしたいと思いました。メール書簡を希望した一番の理由は、連載第3回の「情報と意味」の最後で、伊藤さんが「ユーモア」に触れていることにあります。

ぼくはそれこそ食卓の茶飲み話のなかで、見えないひとや聞こえないひとの「ユーモラス」なエピソードを伊藤さんから何度も聞かせてもらってきました。第3回でとりあげられている、レトルト食品のパッケージが見えないために袋を開けるまで何が出るか分からないという難波さんの話は、食卓で笑ったユーモアのひとつでした。こう書いた瞬間すぐさま言い訳したくなります。このことが今回メールを介して話したい事柄そのものに触れているのですが、つまり、ぼくは難波さんのエピソードで笑ったのですが、その笑いと見えないひとの行為を愚かと思って笑うこととをはっきりと区別したいのです。

ひとの愚かさを笑う。西洋哲学史を繙くと、笑いとは愚かな者を笑う愚かしい行為だとみなす「優越の理論」が、西洋において支配的だったことがわかります。だから笑ってはいけないのだ、とプラトンは説いています。哲学史に限った話ではないですよね。ぼくたちの日常のなかでも「そんな風に笑ってはいけません」といってくる社会的圧力はただよっています。そして、だからこそぼくも「難波さんのエピソードで笑うなんて!」と目くじらを立てるひとの存在をかすかに感じて、言い訳したくなるのでしょう。

しかし、そもそも「優越の理論」だけに依拠して笑うひとを批評することはおかしいと思うのです。その思考は、しばしば、障害者=愚かしいひと=可哀想なひと=笑ってはいけないひとという等式へと閉塞していくものです。そしてそうした思考は、障害者を擁護しているようでいて、障害のあるひとと健常者とを区別し、後者を前者よりも優れた者とみなして、両者の優劣を固定してしまいます。でも、伊藤さんの考察が、そうした思考から自由になるために進められているのは間違いない。


難波さんのエピソードを聞いて笑ってしまうのは、難波さんが愚かだからではありません、むしろ難波さんのその思いつきに驚き、その驚きとともに笑ってしまうのです。伊藤さんが「ユーモア」と称したのは笑いがそうしたものだったからではないでしょうか。そう、笑いの理論には「優越の理論」とは別に「ユーモアの理論」もあるのです。ユーモアの笑いについて考えるのに、精神分析学者・フロイトのエッセイ「ユーモア」に頼ってみましょう。フロイトは、死刑囚が死の瀬戸際にあって「今週も幸先がいい」と口走るその態度の内に、ユーモリストを見ています。ユーモリストのユーモラスな態度はなぜ笑いに繋がるのか、フロイトはこう説いています。

「聴き手の判断にしたがえば、この他人は今にも興奮のきざしを現しそうに思われる。聴き手は、この男が怒り出すだろう、嘆くだろう、苦痛を訴えるだろう、驚くだろう、おじけをふるうだろう、ことによると絶望のどん底に沈むことだってあるだろうと思って息を呑んでいる。そして、そうなった場合にはその男に追随して、自分自身の中にもそれと同じ感情興奮をまき起こしてやろうと待ち構えている。けれどもこの期待はそむかれる。その男は、少しも興奮した様子を見せないで、冗談をいうのである。そして聴き手は、このようにして感情の消費を節約したことが原因となって快感を覚える。これがユーモアによってえられる快感なのである。」(フロイト「ユーモア」『フロイト著作集 3』人文書院、p. 407)

笑いとは感情の消費が不意に節約されたことにあるとフロイトはいいます。「節約」とはすなわち、この男はこんな気持ちだろうとの聴き手の思い込みが裏切られることです。第3回のエッセイになぞらえてみると、「この男はこんな気持ちだろう」は「情報」に関する事柄でしょうし、思いがけず「今週も幸先がいい」と死刑囚が口走るのは「意味」に関する事柄といえるでしょう。

さて、ここからが質問です。こうした〈ユーモリスト−聴き手〉の関係を〈障害者−健常者〉の関係に重ね置いてみるというところが、伊藤さんのエッセイにはあると思うのですが、そうした関係性について伊藤さんがどんな考えをもっているのか、教えてもらいたいのです。〈障害者=ユーモリスト−健常者=聴き手〉という関係性をどう捉えれば良いのでしょう。いや、こんな風に関係を固定して考えることは即座に問題かもしれません。すべての障害者がユーモリストであるとは限らないでしょうし、ユーモリストであることが障害者の存在価値だと安易に見なすことは、ユーモリストでなく生きる自由を障害者から奪うことにもなりかねません。

情報の少なさが、むしろ豊かな意味を引き出す。障害があるという身体的条件が「少なさ」をもたらし、健常であるがゆえの「多さ」からの自由をえる条件となる。そう捉えると、障害者と健常者の区別を善かれ悪しかれ強化することになるわけですが、健常者も目を瞑ることが出来るし、耳を塞ぐことが出来ます。とすれば、障害という存在は、気づきの触媒であって、絶対的なものではなく、健常者のなかの潜在的な力に気づくきっかけを与えてくれるものだ、と考えることも出来ます。

木村覚


Date2014年9月14日
From伊藤亜紗
To木村覚

木村覚さま

原稿へのレスポンス、それから新たな提題、ありがとうございます!

メールの内容、ほんとうは一文一文回答しなければならないような密度のある文面ですが、いただいた問いかけをひとまず、「障害者のユーモアを私たち(「健常者」)はどんなふうに聞いたらいいのか」と整理させてください。この返信では、この問いについて私なりの考えを経験に即して書いていきたいと思います。

ところで、これは倫理的なことにかかわる問いで、どちらかというと考えることをサボってきた領域です。自分は美学者で、いろいろなことを感性的に(価値中立的に)考える傾向がありますから。ですからとてもよい機会を与えてくださったと思っています。

それと、このお手紙のなかで「障害者」とは、私が直接知っている「視覚障害者」に限定させてください。障害の種類によってユーモアの質はちがうでしょうし、ユーモアが通用しない場合もあります。しかし、ここではそのことには立ち入りません。


まず問題は、「障害はどこにあるのか」ということです。よく言われる言い方ですが、「障害は障害者にあるのではなく、障害者と健常者(や社会)のあいだにある」。これには私も賛成です。いやむしろ、障害=バリアと考えれば、それがあるのは「あいだ」ではなくて健常者の側、その心の中や社会の構造、インフラのデザインの方にあると考えるべきでしょう。このうち、ユーモアがかかわるのは、「健常者の心の中にあるバリア」の部分なのではないかと思います。

やっかいなのは、「健常者の心の中にあるバリア」が、多くの場合、障害者を傷つけてやろうという「悪意」ではなく、障害者を傷つけてはならないという「過剰な善意」であることです。障害者と接するときには、傷つけないように発言や態度に十分気をつけなければいけない、万全のサポートをしなければならない。障害者が実際にそれを欲しているかどうかを確認することもなく、私たちはそう思いがちです。障害者はますますアンタッチャブルな存在になっていきます。つまり障害とは、相手(障害者)のことを知らないがゆえの、過剰に先回りした配慮なのではないでしょうか。

実際、こうした「先回りした配慮」が障害者たちの笑いの種になっている場面に出くわしたことが何度かあります。分かりやすいのは、「障がい者」という表記です。「障害者」という表記に含まれる「害」の字がよろしくないということで、最近は別の表記が好まれるようになってきました。しかし、視覚に障害のある方がテキストを読むときは、たいていは音声読み上げソフトを使います。私が聞いたある人の話では、この「障がい者」という表記が、その人の使っている音声読み上げソフトには認識できないらしいんですね。「さわるがいしゃ」になっちゃう(笑)。まさに先回りした配慮の失敗例ですよね。もちろん「さわるがいしゃ」と読まれることで、執筆者の配慮に気づく事ができますから、そうした配慮を必要とする障害者にとってはいいのかもしれません。こうした問題は、どちらがいいという正解はありません。私個人は、表記への配慮は、あまり意味がないか、上記の意味での障害をむしろ強めてしまうように感じています。

もう一つ、インタビューの中で出てきた例をあげたいと思います。「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の林健太さんが話してくれた例です。林さんが視覚に障害がある仲間とソフィ・カルの「最後に見たもの」(2010)という作品を見に行ったときのことです。この作品は、中途失明をした人に、最後に見たものは何か──それはつまり、多くの場合失明の原因です──インタビューし、その答えをテキスト、再現写真、ポートレイトでドキュメントしたものです。林さんは最初、その作品があまりに痛々しく、トゲトゲしているなと感じたそうです。林さんの口から、仲間の視覚障害者にそれがどんな作品か説明したはずですから、かなり気が重かったのではないかと思います。林さんの「先回りした配慮」があったわけですね。でもその視覚障害者の反応は、それを、「視覚障害者が持ちネタを披露している作品」という感じで受け取ったそうなんですね。「これはちょっと劇的すぎて共感できないな」とか「どこまで本当なのかな」とか、つまり障害とは関係なく、自分について語る語り方の問題としてその作品を解釈したそうです。カルがインタビューした人たちと同じ立場にたっているからこそ、むしろ問題を普遍的に捉えられたわけですね。同じようなことは、最近の盲導犬殺傷事件についてもありました。あるメルマガで、視覚障害者が、飄々と「そういうことをする人は、見える人に対してもひどいことをするはずだ」と書いていました。障害者であるからこそ、障害がかかわる問題のアンタッチャブルさをあっさり解除して、普遍的な問い! に変えてしまうことができるんですよね。


こうした「先回りした配慮」が解除されることについては、メールで引用してくださったフロイトのユーモア論がとても示唆的ですね。死を目前にして「今週も幸先がいい」と言う死刑囚の話でしたが、この発言は、「あの死刑囚は苦痛を覚えるだろう、おじけるだろう etc.」「自分もそれに同情してやろう」といった聞き手側の「配慮(期待)」を裏切るものでした。フロイトは、そのような「感情の節約」がユーモアだと言っていました。上記の二つの例では、まさにそうした「感情の節約」が起こっているといえるのではないでしょうか。

それと、この「感情の節約」は、死刑囚が相手を笑わせる目的で(つまり本当はそんなこと思っていないのに)「幸先がいい」と言ったのであれば、起こりませんよね(違うでしょうか?)。その場合には、「死ぬ間際にそんなことを言えるなんてすごい余裕だ」「よほど変わった人だ」といった感想になるのではないでしょうか。ユーモア発信者の本との心の中を知った感じたときしか、聴き手は笑えないように思います。つまり、ユーモアは発信者の本心を知ることによってこちらの配慮や期待が無になることであって、発言じたい(発話行為)がユーモラスなのではないと思います。演技があるところにはユーモアはないのではないでしょうか。

もっとシンプルに言えば、「思い込み」が「真実」にはじき返される。これがユーモアなのかもしれません。視覚障害者の例でいえば「健常者の過剰な配慮」が「障害者たちの実際の生活のあり方や考え方」によって、それが「思い込み」であったことを知らされるわけです。ユーモアには、聴き手の信念をジャッジする批評性があります。

ユーモアのこうした力を強調したのが、シャフツベリです。シャフツベリが生きた17〜18世紀のヨーロッパは、宗教に名を借りた列国の覇権争いの状態にありました。そんななか、彼は、迷信や妄信(具体的にはプロテスタント)に対抗するために必要なのはユーモアであると政府高官に対して意見しました。つまり、誤った教えを信じ込む頑迷な人々に焚書や投獄といった弾圧をしてはならない。弾圧ではなく、揶揄することが有効だというのです。なぜなら、そうしたユーモアに耐えられるかどうかは、信念が真実であるかを検証することになるからです。彼によれば、「真実はあらゆる光に堪えられる。事物が完全に考察されるための主要な光、すなわち自然な手段のひとつは笑いです」(『共通感覚論』)。それゆえ、「上質のユーモアは狂信に備える最善の防衛手段であるだけでなく、敬虔と真の宗教の最善の基礎なのです」(『熱狂についての書簡』)。具体的には、例えば「神が話し始めたら、池の魚がいっせいに集まってきたんです」と興奮ぎみに叫ぶ信者に向かって、「こっそりパンくずでも撒いていたんじゃないの?」とでも言い返すことでしょうか(ちなみにこれは映画『A』中での森達也の発言)。そういえば難波さんもある対談イベントで、「ぼくの好きな話」を紹介してくれていました。ある友人が難波さんに「なぜ雨乞いが踊ると雨が降るか知ってる?」と聞いたそうです。分からなかったので答えを聞くと、「それはね、雨が降るまで踊っているからだよ」。

障害者への配慮はもちろん必要ですが、相手のことを知らずに行う先回りした配慮は、ある意味では妄信のようなものです。差し出した過剰な配慮が全く役に立たなかったという経験、妄信にすぎなかったと突き返される経験が、障害者のユーモアなのではないでしょうか。ひとまず、これで1回めのお返事とさせてください。

伊藤亜紗


Date2014年9月28日
From木村覚
To伊藤亜紗

伊藤亜紗さんへ

早速のご返答ありがとうございます。もう1往復、お互いの意見を交わしてもよろしいでしょうか。

伊藤さんのメールのなかで基軸となっていたのは「先回りした配慮」への批判でした。「障害者のユーモア」とは「〔健常者による〕差し出した過剰な配慮が全く役に立たなかったという〔健常者の〕経験」を指すものではないかというのが、伊藤さんのさしあたりの結論でしたね。「先回りした配慮」を〈法〉と言い替えることで、これまでフロイトに頼っていたユーモアの議論をジル・ドゥルーズのそれに乗り換えてみようと思います。あまり意味なく理屈っぽくはならないようにするつもりです。ドゥルーズは『マゾッホとサド』(1967年)という著作で、〈法〉に対する2つの態度としてイロニーとユーモアを挙げ(しかも、今回はこまかくは触れないのですが、ドゥルーズはイロニーにサド的態度をユーモアにマゾッホ的態度を見ています)、両者を対比しています。

ドゥルーズが言うには、イロニーとユーモアとを思考するということは、法の内容の非限定性を明らかにするための営みです。より端的には「法に服従するものの有罪性」(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、晶文社、p. 108)を明らかにする営みです。イロニーは原理へと遡行しながら、一つひとつの法をくつがえしていく活動です。難波さんの「レトルト」のエピソードになぞらえるならば、自分の望んでいた味が出るまで何袋もレトルトにハサミを入れつづけるのがイロニスト(サディスト)の態度といえるかもしれません。「選べない状態」をあるいはそれ故に「彼は可哀想である」という理解を〈法〉とした場合、その〈法〉をくつがえしていく徹底した態度は「法に服従するものの有罪性」をあらわすことになるでしょう。けれども、いま私たちが問題にしたいのはイロニストの態度ではありません。難波さんという一人のユーモリスト(あるいはマゾヒスト)は望むレトルトが選べない状態を「ロシアンルーレット」と読み替えます。「選べない状態」をつくがえすわけではないのだけれど、その法に従いながらも、同時に法を読み替えてしまう(「選べない状態はロシアンルーレットだ」)わけです。その読み替えによって〈法〉は結果的にくつがえされます、そして、法に服従することの有罪性が露呈します。

さて、もう少し、ドゥルーズに寄り添って考えてみましょう。ぼくがいま「読み替え」と呼んだことをドゥルーズは羽をはやすことと呼んでいます。

「問題は世界を完璧なものと信ずるのではなく、かえって「羽をはやして」この世界から夢へと逃亡することなのである。だから世界を否定したり破壊することが重要なのではないし、まして理想化することが重要なのでもない。世界を否認し、否認の仕草によって宙吊りにして、幻影の中に宙吊りにされた理想的なるものに向かって自分を拡げることが問題なのだ。」(同上、p. 43)

世界の否定でもなく、世界の理想化でもなく、世界を否認すること。ここに、ドゥルーズの指し示すユーモア=マゾヒズムがあります。否認とは、この世界にいて世界を信じず代わりに夢を見ることです。それには宙吊りが不可欠だと言われます。少しここにこだわってみたいのですが、ドゥルーズは端的にこう述べています。

「おそらくは、否認なるものを、否定や破壊ですらなく、むしろ現に存在するものの正当化に反逆し、現実の与件の彼方に、他からさずかったのではない新たな地平を開示しうる特性をになった一種の宙吊りの未決定状態、中間的状態を装うことで成立する、ある一つの操作の出発点と理解すべきであろう。」(同上、p. 41)

中間的状態をキープすることが否認を成立させる条件であるとドゥルーズは述べます。ならばこの中間的状態とはどんなニュアンスを帯びたものなのでしょう。『ドゥルーズと狂気』で小泉義之がこの点について述べている文章は、少し役に立ちそうです。愛児を失った母親が人形を死んだ愛児と信じているという事例を挙げながら、こう説明します。

「愛児(の記憶)を消去したくはないとき、愛児の死を否認するとは、現に起こって現実にそうなることを宙吊りにして現実を解毒して中立化することです。愛児が死んだとも死んでいないとも認めず、泣くことも笑うこともしないということです。そのための依り代(フェティッシュ)となっているのが人形です。そのとき、人形を死児と見なしているのでも見なしていないのでもないし、人形を死児の代わりとしているのでも代わりとしていないのでもなく、そうした判断や行動を宙吊りにしているのです。」(小泉義之『ドゥルーズと狂気』河出書房新社、p. 24)

「選べない状態」をそれとして認める(それを不幸としか考えない)わけではなく、「これはロシアンルーレットだ」と言い切ってしまう(ことで現実を忘れる)のでもなく、羽をはやして飛び上がり「選べない状態」と「ロシアンルーレット」の間を行ったり来たりしている。それが否認の力であり、ユーモアの力だということになるのでしょう。そして、このユーモアに出会う経験というものは他ならぬ他者に出会う経験なのでしょうし、「先回りの配慮」が突き返されている感じを伴いつつ自己変容へと誘われる、痛がゆい経験に違いありません。

と、整理した上であらためて質問なのですが、ユーモリストとしての障害者と出会うことで、健常者はユーモアに出会いそれによって変容するという図式がいま描かれたとして、さらに、その対関係から自由になる道もあればと思うのです。ここでは障害者はいわばユーモアの伝道者となるわけですが、そう尊重することによって、やはり依然として障害者と健常者の隔たりは消えることなくむしろ強化される面もあるでしょう。健常者と障害者を隔てるその区別が「先回りの配慮」の主たる原因のようにも思えます。いや、区別すべきではないと頑に思うことが安易な平等主義に陥って、問うべきイシューを見えなくしてしまうかもしれません。ユーモアというテーマよりは、そこから見えてくる社会について、あるいは目指すべきユーモアある社会について、伊藤さんがいま考えていること、感じていることを聞かせてもらえないでしょうか。

木村覚


Date2014年10月3日
From伊藤亜紗
To木村覚

木村覚さま

二回目のお手紙ありがとうございます。

一回目はフロイト、二回目はドゥルーズからユーモアを考える内容でした。

やはりユーモアというのは「コントロールできなさ」に関わっているようですね。「パスタソースの選べなさをロシアンルーレットに見立てる」にしても、死の間際に「今週も幸先がいい」と言う死刑囚にしても、スケールは違いますが、どちらも「コントロールできない状況」に関わっています。生物にとってもっともコントロールできないことは「死 」であり(もっとも、死刑囚の死は他者によってコントロールされた死ですが)、だからこそ死にまつわるユーモアの伝説が多いのでしょうね。

ふだん工学系中心の大学に勤務していますので、コントロールについてはよく考えさせられます。コントロールすることは、エンジニアリングの根本にある欲望ですからね。交通網、電力網、金融……日々の生活を安心して営むことができるのは、エンジニアたちのコントロールへの欲望のおかげといえます。

しかし当たり前ですが、いまどき「科学技術は万能」「何でもコントロールできる」なんて思っているお気楽な学生はいません。ある講義でアンケートをとったのですが、驚いたことに、「科学は社会に役立つ」と 考える学生の数は、「芸術は社会の役に立つ」と考える学生の数よりも少なかったんです。(ま、芸術が役立つ理由も「気分転換して仕事の効率をあげてくれる」等、アートの教師としては悲しくなる理由ばかりでしたが。)

ではなぜ科学技術にたずさわりたいのか、と聞くと、みな同じようなロジックを口にします。「科学技術は不完全だから、かならず問題を生む。その問題を解決するために科学技術が必要である。」これは完全にマッチポンプですよね。科学技術が、自分のために問題を生み出しているのですから。

コントロールの本質は、コントロールする側(主体)とコントロールされる側(客体)が、入れ替わりうる、ということなのではないかと思います。何かをコントロールしようとすると、かならずコントロールできない部分が出てくる。するとそれが「問い」となり、気づけばその客体の方が状況の立法者になっている……

問題解決的スピリットはもちろん非常に大切で、ある意味で正義の具現化なのですが、それに邁進すればするほど、人が、そして社会が、コントロールされる客体になってしまいます。

たとえば車への自動停止装置の搭載が標準化すれば、安全性に対する社会の価値観が変わり、自動停止装置が搭載されていない車は殺人兵器のような扱いになるのではなるでしょう。安全性を求めるあまり、社会が安全性によって縛られることになります。

これに対して、いただいた書簡のなかにあった、愛児を失ってしばらく人形を抱いていた母親の話は、「問題解決をしない」例ですよね(ユーモアと言えるのかどうかは分かりませんが)。しばらく現実に直面せず、夢を見て、宙づりの領域に入る。「問題から降りて」います。

障害者のユーモアに関しても、やはり「問題解決から降りる」ことのうまさを感じます。

社会が大きく舵取りをするときには、まず「問題から降りる」ことが必要なのではないかと思います。社会とユーモアの関係を考えるというお題、なかなか難しいですが、そのあたりに考える糸口がありそうです。社会がなにか大きな問題に悩んでいるときに、いまみんなが悩んでいる問題は(しばしば為政者によって)人為的に設定された問題なのであり、その設定じたい を交わすことが必要なのだ、と気づかせること。闘争する代わりに状況をずらすこと。それがユーモアの力ではないでしょうか。

それには、究極的には現実をただ言葉にするだけでもいいのかもしれません。精神科医の三脇康生さんが、こんな例を報告しています(『ユーモアと飛躍』より)。ある病院に、周囲に暴力をふるったり怒鳴り散らしたりして、看護師がだれも手をつけられなくなってしまったSさんという患者がいたそうです。つまり、みんながSさんをコントロールしようとして、逆にコントロールされてしまっている状態だったんですね。みんな困り果てていたのですが、ある日、新米の看護師がやってきて、その患者に向かって「Sさん怖いなー」と言ったそうです。そうしたらその患者の態度が変わって、笑い始めたらしいんですね。「Sさん怖いなー」という発言は、狙ったものだとしたらすばらしいユーモアですよね。ただ現実を報告しているだけです。でもそのことによって「現実」を否定しています。コントロールできないという現実を認めることで、逆にコントロールの関係、問題解決という設定自体をずらしている。

さいきんはインクルーシブ・デザインのように、障害者を商品開発の段階に巻き込むような動きも増えています。排除されがちな人を包摂するこうした動きは素晴らしいと思いますが、包摂することは囲い込むことと紙一重ですよね。マージナルなところから社会を眺めているからこそ、「降りる」という発想ができていた。でもそれがなくなるのだとしたら、オプションが消えてしまうのだとしたら、ひとつ大事な視点がなくなるような気がします。

以上、少々一般論になってしまいましたが、二回目のお返事とします。

ありがとうございました。

伊藤亜紗


Date2014年10月4日
From木村覚
To伊藤亜紗

伊藤亜紗さま

二度目のお返事ありがとうございました。

それにしてもこの「コントロール」のお話も興味深いです。

誰もがこの言葉を耳にすれば「アンダー・コントロール」と口にしたあの方のことを思い出すことでしょう。あの方を非難するよりも、ああいう立場に立ったときについそう口にしてしまうその力について考えさせられます。「強さ」とかこれもあの方の著作の言葉ですが「美しい国」というときの「美しさ」とか、そうした力をコントロールしたいという欲求が人間にはあって、それをコントロール出来るのだと思い込むカリスマにひとびとは魅了されてきたわけですが、そしていまの日本においてはそうした「力」に魅了されたり、怖じけたり、吠えたりする状況ばかりが目立ちますが、そのなかで淡々と別のことを考えること、それが「ユーモア」の態度ですよね。

そして、障害者とともに考え生きることが、そのための最良の道のひとつだということを確認することが出来ました。

引き続き、連載よろしくお願いします!

木村覚

エッセイ 伊藤亜紗
障害者と考える身体
(7) 〈共有〉と〈共感〉
エッセイ 伊藤亜紗
障害者と考える身体
(6) DIYとレディメイド
エッセイ
砂連尾理のダンス夜話
〈第3夜〉垣尾優さんをお迎えして
エッセイ
砂連尾理のダンス夜話
〈第2夜〉佐久間新さんをお迎えして
エッセイ 伊藤亜紗
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(5) 文化的構築物としての耳
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砂連尾理のダンス夜話
〈第1夜〉手塚夏子さんをお迎えして
エッセイ 伊藤亜紗
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(3) 情報と意味
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(2) 「見る」を目から切り離す
エッセイ 伊藤亜紗
障害者と考える身体
(1) 他者の目で見る