BONUS

カプカプ光が丘(編)『ザツゼンに生きる 障害福祉から世界を変える カプカプのつくりかた』より

対話を通してダンスを捉える
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス ⑥
鈴木励滋
オルタナティヴな劇場としての
喫茶カプカプ
聞き手:木村覚

今年のBONUSのテーマは「ワークショップ」です。ダンスのアイディアを公開する場として普通想定されるのは、劇場での上演という形態でしょう。けれども「ワークショップ」だってそのひとつのはず。劇場が〈舞台上のパフォーマー〉と〈客席の観客〉を二分するのに対して、ワークショップの場では両者は空間的に混ざり合い、役割としても、見られる(パフォーマー)/見る(観客)という二分法がゆるめられ、教える(能動)/教えられる(受動)関係さえも柔軟な状態になりうるのではないか。そして、本番/リハーサルといった二分法からも、プロ/アマチュアという区別からも、自由になれるかもしれない。そんな「ワークショップ」という場は、フレッシュなダンスが生まれる潜在的な可能性に満ちているのではないか?

そんな思いから、まずはいろいろな専門分野の方々にお話を伺うことにしました。ダンス・ワークショップの運営者、振付家、あるいは学校教育の現場の方(先生)……。

今回は、カプカプ★1の所長、鈴木励滋さんへインタビューした模様を紹介します。

カプカプは横浜市旭区のひかりが丘団地にある地域作業所。そこには喫茶カプカプというカフェがあります。

私ははじめて昨年10月に訪れて、大変驚きました。(そのときのことはartscape★2に掲載されています。)人間の理想的な空間。大げさに聞こえるかもしれないけれど、そんな気持ちになったのです。漂う空気の感じがとてもよくて、関係が柔らかく、しなやかで、あたたかい。こういう場が生まれることこそ、社会の理想だろうと思わされた日でした。ならば、もちろん「ワークショップ」という場であっても、そうではないかと、そう思いました。

二月のまだとても寒い午後。そういえば、強風で扉の窓が割れ、一時しのぎのテープを貼ったり、現れたガラス屋さんに応対したりしていた鈴木さんのお仕事の合間に、このインタビューは行われました。

★1
カプカプ
https://www.facebook.com/kapuhikari/
★2
鈴木励滋所長『喫茶カプカプ』(木村覚によるレビュー)
http://artscape.jp/report/review/10128851_1735.html

収録日 2017年2月21日


カプカプの「演出」

©阿部太一

──昨年10月に喫茶カプカプにお邪魔しました。というのも、以前、あるシンポジウムの場★3で、鈴木さんが喫茶カプカプで起きていることは一種の演劇なのだ、とおっしゃっていたのが気になったんですね。そして伺ったとき「もしこれが演劇だとしたら何と豊かな演劇なんだろう」と、思ったんです。それがどんな豊かさだったかというと、健常者と障害者が同居する空間の中では、(どちらの立場に比重があるにせよ)えてして一つの方向に形がつくられてしまいがちなんですが、決してそうはなっていなかった。お客さんには高齢者が多いんだけど、そのお客さんと従業員のみなさんとのやりとりがとても柔らかく、ゆるく連結していく、理想的な空間だったのです。この空間は、私がワークショップを考える時の一つ大きなヒントになるのではないかと思ったんですね。ワークショップはしばしば「教える側/教わる側」といった形で人間を分けて、権力的な構造をつくってしまいがちです。そうした状態を回避して、集団的創造の場をつくることはどうしたら可能か、そのヒントを教えてもらいたいって思いながら、やって来ました。

★3
シンポジウム「障害とアートの現在--異なりをともに生きる」(2016/10/9@東京大学駒場キャンパス)
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2016/10/symposium_on_disability_and_ar/

鈴木 舞台でも、「正解」を持っている作品ほどつまらないものはなくて、そういうのは「あーそうですか」って作者が用意したそれを了解するしかないわけですからね。こちらが思いもしなかったところまで連れて行ってくれるのって、えてして作り手も「正解」を持っていない。「そんなところまでつれて行ってもらえるものか」と驚くほどの可能性を持っていて、僕はそういうものが見たいなあと。カプカプという「場」の可能性もそうであってほしい。だから、そこで関わっている人たちにワークショップを体験してもらうとしたら、「正解」を与えるのではなくて、一緒にそれを探っていくようなものでないととは思っていました。一方的に指導するような講師ではなくて、そういう可能性の面白みを知っている人たちと一緒にやりたいなと。

障害がある人たちの表現を「すごい」って言うアーティストは結構いるとは思うんですけど、講師となった際に自分は絶対揺るがないって人が多いんじゃないかなと。「すごい」って口では言っていながらも、「あなたの足元揺らいでますか?」ってところは見てます。アーティストは時間や存在をかけてやってきているものなのでしょうから、なかなか揺るがないというのは判るんですけれど、ずっと講師と生徒という傾斜関係を守りつづけようという人とだと、せいぜいその人の「正解」までしか行けないじゃないですか。わたしはカプカプのメンバーたちが自分の存在を揺さぶるほどすごいって思っているので(それはカプカプメンバーに限らずどんな他者もなんですけれど)、ワークショップの伴走者としてのアーティストは、そのすごさに相応しい人をこちらも選ばせてもらう。

── 例えば、どんなアーティストがカプカプで講師を担当しているんですか。

鈴木 カプカプでは偶数月に絵本作家で画家のミロコマチコ★4さん、奇数月に体奏家の新井英夫★5さんにワークショップをお願いしています。彼女たちは嫉妬するんですよ、ここにいる人たちに。それは自分の足場を揺さぶられているんですね。そういう人が面白い。そして、えてして表現者として自分で立てていない人の方が揺さぶられ難い。「先生」の位置に頑なに居座り、「正解」にしがみつくようです。

それは僕らが指導員と呼ばれるのとも通じているわけです。まさに「正解」があって、それは障害福祉においては立派な人間像という「答え」なんですが、訓練、矯正をして障害がある人たちを適応するように指導するという役割ですよね。でもそれが本当に大きな間違いで、全然それは答えでもなんでもなくて、わたしたち社会の主流派が勝手に決めつけているだけ。そういうものに自分を合わせようとしてしんどい思いをしているのは、障害者と呼ばれる人だけではないんですけれど。

★4
ミロコマチコ:画家、絵本作家(HPより)
http://www.mirocomachiko.com
★5
新井英夫:体奏家(HPより)
http://wikiwiki.jp/jcdnmdfj/?ARTIST%2FAraiHideo

──うん、そのあたりの話を聞かせてほしいと思っていました。例えば「指導員」という立場の方が、「社会に適用できる障害者を育てよう」として、結果「健常者に障害者を近づけ」ようとするかもしれません。熊谷晋一郎さんの『リハビリの夜』(医学書院、2009)を読むと、少年期の熊谷さんにとって、リハビリというものは健常者の身体に自分の身体を寄せていく営みだったと振り返られています。でも、その営みは、無駄骨となる場合が多い。ということであれば、むしろ障害を持った人はその形のままでコミュニケーションを取りながら社会に適応出来る方途を探した方が良いのではないかと思います。喫茶カプカプに来て、前回も今回も驚くのは、実に「普通に」健常者と障害者がコミュニケーションを取っていることです。先ほども私は、男性の従業員の一人から似顔絵を描いてもらいました★6。彼の方から話しかけてくれて、彼の描いた絵も見せてもらいました。こちらは彼の話を聞いているばかりで、コミュニケーション能力があるのは、私よりも彼の方だなと思わされ、嫉妬しました。相手を気遣う何か技のようなものが彼にはある気がしたんです、それは何なのでしょう。

黒瀧さんが描いた木村の似顔絵

★6
黒瀧勝さんのこと。喫茶カプカプで働くメンバー。「左利きの子どもに興味あるんですけれど」が口癖。さりげなく話しかけてきて、自分の描いてきた絵の束を渡し、気づくと、僕を絵のモデルにしている。驚くべきコミュニケーション能力の持ち主。

『ザツゼンに生きる』より

鈴木 それが演出。そういう言い方は誤解を与えやすいのであまりしませんが、木村さんだから敢えて言ってしまうと、彼にはそういう状況を用意している。普段の常連さんのような彼が知っている/話しかけてもらえる人ではない人で、しかもこの人ならば彼をシャットアウトしないだろうお客さんがやって来た時に、「来たよ」という情報を与える。話してごらんとまで押し出さなくても彼は興味を示すので。

──誰かに興味を抱いたとしても、健常者だって相手に話しかける勇気やテクニックをもっていなかったりするわけですよ。相手の武装を解除する力もあるし、自分の武装を解除する力もあって、「なかなかやるな!」と思ったんですよね。

鈴木でも、彼は前居た場所では、「左利きの子ども」の話なんかは禁止されていたんですよ。それでどんどんフラストレーションが溜まっちゃって、もう幼稚園とかに電話しちゃうの、「左利きは何人いますか?」とかって。

──「圧」がかかると、余計な方に出ちゃうんですね。

鈴木別にそういうことを話してもOKだよっていう安心がないから、煮詰まって極端なことまでしちゃうっていう。だから何か事件を起こしちゃう「触法障害者」とか呼ばれますけど、耳にするたびにその人がどれだけ孤立させられて追い詰められていたのだろう、って思います。世の中の方に寛容さというか、何でもありではないけれども、そのくらいはOKだろという度量があればそこまでいたらずに済んだのではないかと。ところが残念なことに現代は社会がどんどん窮屈になっているから、より追い詰められていって、ずーっと押さえていたエネルギーが噴出してしまうということは起こりやすくなる。だったら、その逆をすればいいのであって、できる限り何でもありにする。ただ、だからこそ、当然今の世の中の価値観で生きている人たちとの折り合いを見極めなくてはお互いが嫌な思いをしたり、結果的につながらなかったりしちゃう。最初来たころは彼なんかも、想いが余ってがーっと関わりに行っちゃってたわけですよ。ここに移ってきて今まで禁止されていたこともOKだよって感じにしたんだけども。
お互いがそれぞれ最上に快適というのは無理かもしれないんだけど。一方が相当我慢するみたいなことだと、他方も一見は満たされているようでいて本当はそんなに快適なことではないはずなんです。理想としては「できるだけ何でもOK」なんだろうけど、すぐにはそうならない。それほど主流派の価値観は社会を覆いつくしているわけです。カプカプではあれこれ何でも接客であると言ってしまうことでできるだけ何でもOKにしていこうって企んでいるって感じですかね。

障害者研究から透けて見える「健常者」という問題

──個人的にここ数年「障害」について考える機会が増えていて、障害者を取り巻く場所に行ってみると、すごくいい場だなと羨ましく思うことが多いんですよ。そう思うたびに、私は健常者のことが気になってきます。障害者に誠実に丁寧に接してくれる介助者などの方の姿を見ていると、「この状態に比べると、健常者はどれだけ世間からケアされていないのだろう」と思ってしまうのです。別の言い方をすると、絵を描いてくれた彼が心のもやもやを抱えていたとして、健常者だってそうしたもやもやを抱えていることがあるだろうし、その点ではどちらもそう違わない気がするんですよね。でも、健常者は「自立している者」であり、「自分の心のもつれや弱い部分、外へ現われでたら社会から攻撃されるかもしれない部分を、自分で解決せねばならない存在」と私たちは思いこみすぎているかもしれません。依存するのが下手なんです。ならばワークショップという場を研究し、実践するなかで、参加者としての健常者のケアをどう考えるかということに、自分はフォーカスしてみたいと、いま、思っています。ところで、障害を持っている人の自由を許してゆく場、カプカプがそういう場だとしたら、彼を許すことで自分を許すというところがあるような気がするんです。それってすごい「力」だなって思います。どんな人もどこかで何かの規範性に縛られているところがあり、その拘束状況をゆるく解除する力が喫茶カプカプにはある。そして、それが居心地の良さの原因なのじゃないかと、それはすごいことだと感じるんです。

『ザツゼンに生きる』の表紙(→詳しくは

鈴木 そうですね。そのようになったらいいなと思ってやっています。僕は障害のことをまったく分からないでこの仕事に就いちゃったんですけれど、社会学や政治学などをやってきて、関係性とかそういうことが気になっていたから、そこから考え始めて、今でもそこが基盤になっている。さまざまな障害にはそれぞれ特性があって、困難さがある。それをバリアフリーとかいろんな方法で少しでもしんどさを減らすというのは、もちろん必要だと思っています。でもやはり、障害は人にというより人と人との関係にあるものだと思っていて、社会的モデルとよく言われるように、別に僕が考えたものでもなんでもないんですけど。僕が関心があるのは障害がある/ない、障害/健常ということよりも、しんどさや生きづらさの方なんですね。個々に異なる障害の問題としてお互い分け隔てするというより、誰にも相通ずる生きづらさの問題なんだって思えると、一緒になんとかして行こうってなるのではないかなと。世の中の主流の価値観があまりに揺るがないので、障害がある人たちがその価値観においては負の評価をされてしまいがちなために、理不尽にもすごく煽りを受けているのは事実です。それでも、この国の現代の価値観の中で「立派な人間」と見なされるような頑張っちゃえてた人たちが、年々ものすごい人数、精神的に病んだり自殺しているのも尋常じゃない。現代日本の価値観こそが尋常じゃないんじゃないかと。

しんどさやイライラの話になると、時にその原因として性的な欲求の話になることもあるんです。それをいかに解消するかって。それはそれで一つの原因なのかもしれないけれど、人間そこまで支配されているかっていう話もありますよね。

──それは面白いですね。健常者で「誰とでもいいからSEXしたいんだ」って友達に打ち明ける人がいたとしたら、「風俗行けば」っていうのも一つの答え方かもしれないけれど、「女の子のことを丁寧に考えられるようになれるといいんじゃないかな」って言うこともできる。切り口は色々あるはずですよね。単に性欲という話でも。

鈴木 なんでも性衝動のせいにされるのもなんだかなぁと思うんですよね。学生のころからこの世の中を見ていてつねに不思議だったのが、みんな無理して働いてストレスため込んで、それを癒しであるとか風俗に行くであるとかで発散してまた仕事する、ってのすごくバカバカしいなと思っていた。だったらそういう風にならないように働けば/働かなければいいはずなのに、誰のためにそこまでしなくちゃいけないのって。この国を支えるにしても、「高度経済成長」みたいな神話というか架空のものをみんなで創りあげていこうと駆り立てられているのか。そういうバカバカしさみたいなものをちょっと引いて見ていた。それに嫌味を言ったり物書きという立ち位置で皮肉を言うのも違うよなと思って。実際すごく辛い思いをして死んでく人もいるってのは、やっぱりいかんよねって。風俗だギャンブルだで発散できてしまっているし、そういうもんだよと、人間は嫌なことでも我慢してしなくちゃならないし、それを何かしらで発散して、生きていくもんだよ、みたいなね。こういうことってなんだか変だなって思う。それを不可避みたいに決めつけなくてもいいんじゃないかって。何もみんなでそんなにしんどい思いしなくてもいいんじゃないかと。そもそもその手の発散は別の誰かに生きづらさを移譲したり、一時的にごまかしているにすぎないので、まじめな人ほどその辺りを突き詰めて考えて、発散もできずに死んでいくというのは、せっかく生きているのにもったいない。

あらためてカプカプの「演出」(健常者に向けた)

鈴木 勤めて最初のころメンバーと一緒に買い物に行くと、スーパーのレジのおばちゃんに「ご苦労様です」って言われて、それがなんかイヤだったんです。世間から障害のある人たちが「かわいそうな人たち」と言われていると過剰に意識してて、勝手に壁をつくってそんな意図でなかったかもしれないおばちゃんの厚意を受け容れられなかったのかもしれない。もちろん「かわいそうな人たち」って接してくる人もいるけれど、関わるきっかけは本当に何でもありだと思っていて、その先により多くの人のしんどさが緩まる道があるんだったら、入り口なんて同情でも勘違いでもいいと思うんです、今は。さすがに悪意から露骨に嫌なことを言う人は諫めますが、中々そんな人はいないし。僕なんかには話しかけてくれないおじさんとかも、なんかカプカプーズには気を許せちゃうみたいで、声をかけてくれたりね。

©阿部太一

──その感じが「すごい」と思うんだよね。

鈴木 そこだけを取り上げると厳密には差別っちゃ差別ってことになるかもだけど、でもそんな理屈だけで人は生きていないというか、関わった先にいかようにも変容していくというか。もっと言えば世の中には巧妙にオブラートで包んだような差別は蔓延しているというか。

──例えば、障害者を蔑むことと感動ポルノ的な、「一生懸命生きている障害者ありがとう」みたいな見方とは、これ実は同根ですよね。どちらも、自分たちが拵えあげたイメージに基づいて他人(障害者)を評価するという意味で。そうした見方をどうやってうまくやめることができるか、ここがとても大事ですよね。

鈴木 人間として、固有名を持った人間としてお互い関わっちゃうってことだと思います。他者を消費する形の感動ポルノだろうが、上からのお情けに近い関わりであったとしても、そこからいかに引きずり込むかが腕の見せ所みたいなところがある。

──どうするんですか? 話しかけたり?

鈴木やっぱりね、いろいろ技を尽くしますよ。でも、乱暴なおじさんなんかより、「頑張っているわねー」と「温かな」感じで迫って来る人たちほど、中々大変ですねぇ。

──実は、凝り固まった思考のシールドに覆われてしまっている。

鈴木そこは何枚か剥がさなきゃいけない。でも、最初はお情けとかかもしれないけど出会っちゃえばこっちのもんだみたいなところもあって。こちらとしてはメンバーには日々働きかけられるので、その人の面白さを存分に出してもらえるような状態を常に作っておく。魅了するのにはそのワンチャンスしかないかもしれないわけですから、いつでもみんな行けます、みたいに居てもらわないと。

──面白いな。完全に演出家だな。

鈴木そういう丁寧に関りを日々メンバーと積み重ねているうちのスタッフがすごいんですけれどね。あと、「カプカプーズは才能のある人を選抜している」と思われることがよくあるのですが、こちらから選んだことはありません。一人ひとりの個性を見出して伸ばすというようなことさえほとんどしていないんじゃないか。ただスタッフたちは、一人ひとりのあれやこれやを面白がって、殺さない。

──「殺さない」とは?

鈴木ダメな障害福祉の現場で、世間の「常識」とやらに適合させるように訓練して画一的でつまらない人間にしていくのを「支援」だと勘違いしている人がいて、それってほとんど殺しているように見えるんです。すごく従順に「立派な人間像」をやっちゃう/やらせちゃうわけですけれど、そんな人たちがカプカプにたくさんいたってお客さんを上手く巻き込めはしない、ってことです。しかも「立派に」させられている人たち、本人も楽しくない人の方が多いから、苛立って従わなければ「問題行動」って言われるし、中には何年も我慢してから爆発しちゃう人もいるし。

──まさに、その話って健常者の話としても聞こえるんですよ。規範意識の中でがんじがらめになって、ときどき爆発してしまう。

鈴木それはまったく同じ構造だと思います。なんてつまんない、というよりザンネンな「支援」をしてるんだろうと思っていました。だってそういう施設でも、日々表には出さないようにしているけれども、職員たちも一人ひとりの面白さを感じているはずなんですよ。記録には残さないし、外部の人にも言わないし、下手すりゃ矯正してしまうかもしれないんだけれど。でもそういうことこそ、私たちがプレゼンしていかなきゃいけない、「これって面白いですよね?」「直される必要なんかないですよね?」「肯定されるべきですよね?」って。そのように考えていくと、「障害」が関係なくなってくるというか、差異を尊重しあうって話になっていく。誰でもそういう窮屈さや生きづらさを感じているのに、何で状況を変えていこうってならないんだろう。

──障害者について考えると、健常者が気になると言いましたが、健常者が「健常者」であろうとして、自分の個性を自分で奪っているという事態が見えてくるんですよね。『ザツゼンに生きる』★7を拝読して、一つ思ったのは喫茶カプカプがね、コンビニとして日本中にあったら日本社会は相当いいだろうなって、そんな想像してホカホカした気持ちになったんですよ。かたや私が今住んでいるところは大田区なんだけど、目黒区と世田谷区に隣接していて、ちょっと散歩すると世田谷区の奥沢に行き着くんですが、そこに今話題になっている幼稚園が建設されつつあります。★8その周辺は一軒一軒が大きく瀟洒な住宅地なんです。その家の柵に自作の札が貼ってあって「地域に相応しい幼稚園を」ってあるんです。なんというか、すごいいやらしい表現ですよね。はっきり言えば「幼稚園来ないで」って思っていて、でも直接は言わない代わりに「地域に相応しい幼稚園をみんなで考えましょう」って表現に変換してアピールしているわけです。

★7
カプカプひかりが丘(編)『ザツゼンに生きる 障害福祉から世界を変える カプカプのつくりかた』(2016)
https://cf.yokohama.localgood.jp/project/kapukapu
★8
玉川田園調布二丁目保育所整備計画地域にふさわしい保育園を考える会
https://tamaden2kinrin.jimdo.com

藤田結子「賛成反対だけでは解決できない保育園問題の複雑さ」
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20160701/biz/00m/010/006000c

鈴木すごいですよね。ムダな言語能力。

──「永田町文学」って言い回しに似た、何とか文学なんですよね。この暗さ、この言葉を思いつき、札を作って、貼って、社会に表現してしまっていることの暗さ。個人を責めるつもりはありません。ただ、玄関先見ると子供の自転車があったりするんですよ。私たちは私たちの利益は守りますが、他人の利益は知りませんっていう振る舞いに見えてしまう、その切ない感じ。もちろん幼稚園が出来たら賑やかになりますよ。眠い時に起こされることもあるかもしれない。でも、幼稚園の活動と自分の暮らしというものが上手く繋がったら、別の人生が始まるのではとわくわくしたってよいわけです。そうした想像力が働かない社会になっているってことが見えて、切ないわけです。私はひかりが丘に来ると、「豊かだな」と思う。奥沢の人たちは、金銭的には裕福かもしれないけど奥沢で生きていくことの息苦しさは、その払っている家賃額に比例して増しているのかもしれません。これは結構辛いことではないかと思うんですよね。でも、だからこそ、この奥沢にカプカプが存在し、機能するとしたら……と想像してしまうわけです。

鈴木ガードが何重にも、ものすごいんでしょうね。まずは自分の限定された幸せ、家族限定の豊かさというのを疑うところから始めてもらいたいので、けっこう意地悪なことをしなくちゃならなさそうで、ちょっとイヤだなぁ。でもそれはね、たかだか一つの基準での「幸せ」だったり、お金でなんでも買えるという「豊かさ」だったり。

──歩けば、街並みに高級外車がずらっと並んでいる。「幸せとは外車に乗ること」のように映ります。

「正しさ」とは別の戦略で

鈴木そういうのって虚しさもあると思うんですけど、そのまま気づかなかったりとぼけたりして一生終われちゃうんじゃないかとも思う。でも、僕はそういう時に「そんな人生は間違っている」みたいに「正しさ」で対峙しようとは思わない。この本を作ったのも、どこかにわざわざ出て行って喋ったりするのも、説き伏せるのではなく魅了しようと思ってやっている。

©阿部太一

──そこはすごく聞きたいところです。私が個人的に考えている言い方は、倫理的に振る舞うのか、美的に振る舞うのか。つまり、正しさを盾にして自分の考えを主張すると、正しいがゆえにコミュニケーションが硬直化していくことがあります。物事を分断していくし、勝敗の話になったりするし。トランプ以後、トランプを叩いていれば溜飲が下がるみたいな状況と似ている気がします。そして、現実のこととして、トランプが勝利を収めてしまう。単なる正しさだけで自分の主張を押し通すことの限界が見えてきているのだとすれば、別の戦略を私たちは選択する必要があるんじゃないかと思うわけです。『ザツゼンに生きる』の鈴木さんの文章を読むと、そうした点に鈴木さんの興味があるような気がしました。

鈴木そもそもトランプだろうが日本の経済界でも何でも、主流な人たちがなびいて行く方向には何等かの魅力があるわけですよね。みんな嫌々それに従っているとか、空気を読んでるとか迎合しているとは思っていなくて。やっぱり魅力があるんですよ、たとえ正しくなかったとしても。それに対抗し得てないのに、絶対的正しさみたいなものを振りかざす運動のようなものに僕は限界を感じていて。自己完結し閉塞した運動にあまり自分が幸せを感じられてなくて、窮屈さしか感じられていないので、そりゃ伝わらないよなと思うわけです。面白いなとか、すごく魅かれて賛同したくなると感じられなかったら所詮そこまでだと思います。カプカプも面白いと感じてくれる人もいるけれども、まだまだもっと魅了できるようにやれることはある。とにかく正しさを突き詰めていくと窮屈さが増してしまうという問題は、生きづらさを緩めるのにはどうすればよいのかということにも繋がるのかなと思っています。

──正しさを振りかざして相手を貶して心を癒すみたいな、ある種のTwitter的なものというか、傍から見てるとそういう癒しに虚しさを感じますよね。一時的な自己満足は得られるけれど、それでは継続的な社会の形はいつまでも生まれないままなわけです。

鈴木何のためにやっているの、って思いますよね。正しさで戦って勝つということは結局自分が満足なんだろうけれど、今まで話してきたように限定された価値観においての勝ち負けに過ぎない。それだけでなく、限定された自分の満足に過ぎないとも言える。そんな自他認識では、自分というもの自体がどんどん狭くなっていっちゃう。僕は自己中心であるということがそれほど悪いと思ってなくて、そこを単に我慢すると自己犠牲になってしまうと思ってるんです。自己中でいいんだけれど、その「自己」が限定されて狭いってのが問題で。限定された自分が自己中であると、単なるわがままになっちゃう。だけど、その自分=私っていうのは様々な人との関係における私である、という風に自己の方を広げていくと、この感じている私=自己を中心に私が最も幸せを感じるということがこの自分一人だけの幸せなんかじゃなくなる、という感覚があります。他人を限定された価値観で打ち負かしたところで「承認欲求」なんて満たされるはずがない。他者に対して開かれていない狭義の自分というものは、根源的に承認してくれる他者との関係を絶ってしまうようなところがあるわけですからね。

©阿部太一

──人は批評家になってしまいがちですよね。SNS以後の社会では、自分の発言を社会に発信することが容易になった。自分を世界から超越した場に置き、俯瞰したまま社会を批判するという、かつては特権的だったかもしれない身振りが誰でも可能になった。すると、状況の渦中に入って何らかのプレイヤーになることは面倒臭いし、面白いところもあるはずだけれど、避けてしまう。自己が狭くなっているというのは、プレイヤーになるのを辞めて高みの見物に勤しんでしまう、ということだったりするのかな。

鈴木そうですね。その正しさを追求して正しさ原理主義みたいなもので戦うっていうのは、結局何なのかって、大切なのそこですかって思う。「正しさ」を崇め奉るのって相手をバカにすると同時に自分をもないがしろにしている。本当に原理主義的なんですよね。もはやそれって虚しさしか残んないじゃんって。それが勝とうが負けようが。突き詰めれば自分でなくてもよい。そういう自分を大切にしないことは残念だなと思う。主体性を放棄してプレイヤーたりえずにいくらそんなこと重ねて行っても誰も幸せにならない。

──鈴木さんはカプカプで活動する障害者を「カプカプーズ」と呼んだりしてメンバーをキャラ化したりします。それぞれが持っている魅力を引き出してプロデュースする、そういう振る舞いに見えます。

鈴木さっき言っていた施設の職員も業界用語の「利用者」っていう人たちと付き合って、そういう部分を隠したり、極端に言うと直したりするわけですけど、必ずや面白いと感じているはずだと思うわけで。面白いは「わっはっはー」だけじゃなくて、なんか気になっちゃうとか。不快なものまでも含めて、なんか気になるってこと。気になるのは、その人の味なので、それを画一的にするのが、今の教育だったり福祉だったりするのだとしたら、その真逆をやればいいのかなと。うちに来たばかりのメンバーがワークショップをやっても、「私は絵なんか描けないです」とか、言っちゃうんですけれど、それは美術教育が言うところの「綺麗な」絵が描けないですというのが省略されているわけですよね。そういう押し付けられた単線な価値観に支配されてるのが、しんどさの源の一つなので、「別にいいじゃない」って言いたくなるんだけれど、その時に「いいじゃない」って励ますだけではその人が納得するはずがない。心無い先生やら同級生やらに「何、そんなの描いて」って言われた経験もきっとあると思う。そこをそうじゃないんだって、あなたの絵は面白いんだっていうことを僕らは過剰に伝えつづけるわけですよ。それはお世辞なのかという問題もあるとは思うんだけど、心無い言葉はバレるし、相手に響かない。だからこそ福祉施設職員に切実に求められているものは、いろんなものを面白がれる能力。僕はそのために舞台を観ていると言ってもいいくらい。こちらの感受能力が乏しければ、肯定できる差異のバリエーションが乏しくなる。すなわち相手を心底から肯定できるかもしれないのに、こちらの鈍さのせいで逸してしまうかもしれないということです。

──人間の表現を面白がる、その枠を広げていく、広げる力を自ら鍛えているということなんですね。

鈴木そうです。東野祥子さんのダンスを見たときに、ギクシャクと苦しそうに踊っていて、最初よく分かんなかったのに、いつの間にか泣いてるっていう経験をして。自分は理屈っぽい人間なので、頭で色々考えて、芝居やダンスを観た時に、思いもしないところで感動することがあると、しばらくそれは何だろうって理屈で考えていたんだけれども。それはそういう言語や論理ではよく分からないけれども、ひとを揺さぶるものがあるんだっていうことで、もういいやって思ったんですけれども。言うまでもないけれど、言葉を使っていなくても意味に溢れすぎているダンスもあれば、言葉を多用していても論理よりも感覚に直接に非言語的に働きかける作品もあります。

よくわからない物事に強く揺さぶられるようなことって、じつは誰にでも起こりうるのに、そうならないってのは受け取る側の問題で、意味とか整合性とか常識とか知識とか、すでに持ち合わせている尺度でしか物事を判断できない不自由さのせいなのかもしれない。だから僕はそうならないようにより多くの表現を見たいという気持ちがあって、とり憑かれたように舞台を観てきたのだと思います。そういう中でも揺さぶられるものとそうでないものとある。予定調和だったり今の世の中に阿っていたりとか、作り手が枠を築きすぎていて彼や彼女の用意した「正解」に導かれるようなものには揺さぶられることはない。パターン外しが目的で奇をてらってみたりというのも同様。そういうことに対して批評はちゃんと批判できないといけないって思う。同時に、舞台とか芸術の可能性っていうのは、やっぱり思いもしない価値を示してくれるものだということも、ちゃんと評価できないと。そういうものを面白がれる尺度が増えれば増えるほど、今は否定しかできない相手や、「問題行動」をしていて「とんでもない!」って感じている相手や、矯正されそうになって爆発していた相手に対して、「何だこれ、面白いじゃん」って、僕が本当に言えるようになる。お世辞じゃなくてそれがちゃんと伝わるようになるんです。ようやくちゃんと肯定できるんです。

──肯定されていなければ、黒瀧さん、私に話してこないと思いますもん。この喫茶店の場を包む「肯定力」がすごいなって思う。

鈴木 否定され続けても言わずにはおられんっていうものなのかもしれないけれど、心置きなくやってくれると、そりゃあいいパフォーマンスになるので。

──さりげなかったんですよ。

鈴木 あれは彼が、ここでだったら否定されないって安心してくれているからなのかもしれません。ここに来たばかりの時は、抑えきれない感じで前置きもなく「左利きの子どもに興味があるんです」とか言っちゃってた。唐突に言っちゃえばみんな驚いて、そうすると関係が成り立たない。やっぱり彼が安心して存分に好きなことを語れるってなることで余裕が生まれると、結果としてコミュニケーションが成り立つ。それは彼がここで成り立つってことでもある。

──黒瀧さんに匹敵するようなテクニックも、安心感も社会の中にいるとき、私は持ちあわせていないっていう気がしてしまうんです。こっちの問題がまた別に相当あるなという。鈴木さんのお話でいいなって思うのが、鈴木さんが舞台芸術を観る理由として、人を見る力を養っているんだという点です。その芸術を見る目は人を見る目であって、それがあることで、誰もが社会におけるプレイヤーになれる。

鈴木 なによりこの自分が豊かになるんです。思いもしなかったことで感動するってのは、その表現と出会う前と後とで自分の厚みが増しているってくらいのことです。これは感動ポルノの感動とは違う。感動ポルノは用意されたわかりやすいフォーマット、今の世の中でOKとされる枠内で頑張っている障害者のすごい限定された美しさ。

──「感動ポルノ」っていうのは、「感動」って言葉を使うけれども、その感動は、感動の対象を直に感じているんじゃなくて、むしろ感じないように、対象に関わらないようにして生まれる感動ですよね。

鈴木 それは断じて足場の揺るがない条件反射みたいなもので、壮絶な人生+努力+成功そこに音楽を流せば泣くだろ、みたいなカタルシス。そのバリエーションの一つとして、障害が使われたりするに過ぎないので。それは消費。全然その人のすべてを表せていないというか、ここで感動されてもねって思うご本人もあるんじゃないのかな。それは誰でもいいわけですから。交換可能なんですよ。それはね、うちがやろうとしていることの反対。

──規範意識っていうものは、「◯◯らしさ」を人に促す一種の概念の活動で、概念が機能し始めると、それに覆われてしまった個人の「個」の要素が見えにくくなってゆくものですね。ダンスはしばしばその力に加担するところがあるんですよ。その「美しさ」とか、「男らしさ」「女らしさ」など、そういう概念を具現化する場になりがちです。その力から一旦離れて、今話してきたような、見る目を養ったり、人をプレイヤーにしていく力の場にダンスがなるといいんですよね。だからワークショップというテーマも鈴木さんと話をさせてもらうと、その辺りに目指すべきことが一つあって。究極は、繰り返しますが、カプカプがセブンイレブン並みにあることではないでしょうか。

喫茶カプカプがセブンイレブン並みに世界に偏在するならば

鈴木それは本を作ろうと思ったことの根っこも、そういうことですかね。実際にこういう様な場所は全国に7千、8千、コンビニ並みにあるわけですよ。器があるんだったら、そこを変えていければ、新たに何かを創っていくより容易に、おっしゃる通りのそういう形になる。全部を変えられなくても一割の賛同者を得るだけでも地域社会を揺さぶれる。差異があることで生きづらくなってしまう社会の窮屈さを緩める方へ近づける。それを税金でやれてるっていうのがこの仕事の魅力で、それはとっても公共的だと思っています。誰もが抱えているしんどさを緩めるわけですから。

©阿部太一

──そうですよ。人の心の硬さをゆるめる貴重な力だと思うんです。カプカプに居ると、ほかほかするんですよね。「温泉」感があります。一人でコーヒーを飲んでたおじいさんが、一時間後にもう一回来てたもんね。こんな二度もつかりに来たくなる「温泉」ないですよ。温泉が身体をゆるめるための施設だとして、それとはまた違う心身のゆるみを与えてくれる場だと思うんですよね。社会はまだあまりこういう機会の価値に気づいてないんじゃないでしょうか。可哀そうな人たちが頑張っている場といった先入観を捨てて、喫茶カプカプのような場の力がちゃんと社会の中で機能していくとすごくいいと思うんです。

鈴木スーパーに買い物に行くたびにレジのおばちゃんに「ご苦労様」みたいに言われて腹を立てていた話をしましたが、つまり、世の中の可哀そうな人や行き場のない人を制度的な役割として担ってくれている人だと自分が勘違いされたって勝手に受け取っていた。でも、それも実は「正しさ」を振りかざすのと同じような愚かさで、ただきちんと自分が関われていなくて、相手を魅了できていなかったっていうことだったんです。

──それを鈴木さんの問題として考えるということがあったんですね。

鈴木 だからそういう時に、ここが嫌がられる場所でもないし、僕たちの仕事もことさら過酷なものではないし、通って来ている人も可哀そうな人などではないということを理解というより、体感してもらうしかないのかなと。
以前は近くのスーパーが火曜日はお休みしていたので、そうすると商店街に人通りがなくなるんですよ。それで不用品を並べ始めたんですけど。そうするとこの界隈の人は物を大切にするのでリサイクル品も結構売れて、火曜日だけでなく毎日やるようになったんです。今でも火曜日だけは倉庫からたくさん品物を出して、いろんな楽器も外に出して弾いたり踊ったりしてっていうのを、パフォーマンスとして地域の人にどんどん見せちゃう。そういうのきっかけで関わらせちゃう。そうしていたら、いつの間にか「ご苦労様です」って言われなくなったんですよ。別に僕がカチンときて、理詰めで説得したわけでも無く、気づいたらなんですよ。それは「ご苦労様です」って言ってくれてた人の中で、そういう意味合いではなくなった、位置づけが変わった、もしくは障害がある人に対する考え方が変わったのかもしれない。

──「外側から見ている」という姿勢から別の姿勢へと変わっていった、っていうことなんでしょうね。

鈴木 それは関わりを持つようにこちらも仕掛けていますけども。一緒にメンバーたちと買い物に行く時に、敢えて一言を関りが生まれるように足すとかね。それは敢えてやっているわけですよ。そういうどうでもいいような事を、福祉の職分としては必須ではないとも言えちゃうような事を、地域のいろんな人に向けてやっていくと、面白がってくれる人が増えていく。

──鈴木さんはここのカプカプのメンバーたちを振り付けているだけではなく、周囲の住民たちに声をかけることで、この地域を振り付けているわけですよね。これはすごく重要な点ですよね。店ができれば自ずとそれが近隣コミュニティの一部として機能するというわけではないですもんね。全国に7千程の施設があっても、そうなっていないという事実からも明らかです。

鈴木 昔のように入所施設で山奥にあってっていう時代じゃなくて、「障害のある人も地域で」っていう流れになってきて久しいのですが。旭区だけだってこういう形のお店が13程ある。そこを、あそこはいまいちだなとか批判して、うちはすごいよなみたいに満足していても世の中はちっともよくならない。そうではなくて、いかにご同業を魅了して仲間を増やしていくか。それもやっぱり、そうあるべきだと「正しさ」を振りかざしても、中々そうはならないので。実際にやればこれはもう面白いんですよ。地域の人と関わることをしがらみ等があって面倒臭いと考えるかもしれないけれども、やってみれば結果的に楽しめるというのは請け負います。そして、それは人間的に豊かなことだとも思うので、そこをあの手この手を使って仕掛けていく。

──楽しいという実感。それは理屈ではないし、他人から賞賛されることでもないし。私がお話ししたいと思っていた範疇を超えているような気もするんですけど、本気でどうするとうちの近所にカプカプが出来るようになるんだろうか……と考えてしまいます。今ある施設がもう少し社会との関係を作っていくみたいなことが、具体的に起こるとよいのでしょうが、このままではもったいない感じがするんです。

鈴木 魅了するべく揺さぶりをかけるんですよね。僕自身が元来、人付き合いをしたいなんて思っていなかったようなダメ人間なんですけど。こんな僕でも何だか分からずここに来ちゃったところから始まって、こんなことをしてるわけですからね。他の施設に勤務している人にはそんなに難しくないんじゃないかな。

──じゃあ、この場が鈴木さんを育ててもいるんだ。その発端の話にも戻りますよね。自分が揺さぶられるような人でないと、という。

鈴木 僕は人と話す時に考えすぎちゃって、人見知りが激しいし、人とうまく会話が成り立っただけでぞわぞわしてきちゃうような感じだったんですよ。寒気というか、それは別に完全に不快感ではないんですけど。そういうことを自然にできない人間なんですよ。そこまでのことは今はあまりないですけど。

──私にも何かしら生き辛さはあるわけです。そうでもなきゃ舞台芸術に興味を持つようなことにはならないだろうし。でも名付けようがなく、私は何の障害だろうって……分かんないんだけど。色んな形の生き辛さ、「障害」って名乗る程のことではない微弱な「障害」はいくらでもあるはずで。そこに向き合う、自分の弱さを解放する。そういうことがあったら楽だろうなと思いますよ。鈴木さんはひょっとしたら、この場を通して自分にとっての解放の場を作っていったということでもあるんでしょうね。

鈴木 そうだと思うんですよ。人とコミュニケーションを取ることを困難に感じてしまっていたんだけれども、それが何とかできるとぞわぞわして、どうやらそれは喜びらしいと感じたんです。その後は自分と同じように孤立しているおじさんとかがやって来ると、この人と誰かを繋ごうって思うようになったんですよね。うちのメンバーを介してとか、いろんな手を使って、その人をいかに巻き込んでいくかっていう、人繋ぎみたいなことをしばらく意図的にやっていた時期があって。それはずっと学生時代に学んできた関係性の問題とも繋がっていて。そういう中では、その人の名前を憶えるというのは重要で。うちには喫茶のスタンプカードがあって、それを預かっているんですけど、それはおじいちゃんおばあちゃんはすぐに失くしちゃうので預かるようになったんです。ボトルキープみたいなカードキープ。そこに名前を書かなきゃならないので、その人の名前を聞くわけですが、そうしたら名前で呼ぶようになるんです。そうするとじいちゃんばあちゃんじゃなくて、鈴木さんや佐々木さんという人になる。さっき二度浸かりにきた鈴木さんは気仙沼で震災にあった元漁師さんなんですが、お子さんが横浜にいるからこっちに住民票を移してこっちにずっと住むことになって、なんていう事を会話していく中で聞くわけですよね。そういう関係性が築けていけば、ここは彼にとって単なる喫茶店では無くなるし、単なる障害者施設では無くなる。唯一無二の関わり方をしてほしいという思いが、誰にでもきっとどこかにあって。もちろん僕にも、うちのメンバーにも。交換可能なものではなくて、あなたでないと困るよっていうような、関係性でありたい。そう思っているんだったら、まず自分からそういう関わり方をしていかなかったら、そうにはならない。だからこちらがそのように呼びかけていくと、お客さんがうちのメンバーを名前で憶えてくれるようになる。一般名詞の障害者じゃなくて、固有名を持った人間として立ち上がってくる。そこでようやく交通が行われる関係になる。〈わたし‐あなた〉という他に替えがたい交通です。そうなってくると、カプカプーズ一人一人の違いが見えてくるし、彼とのおしゃべりが面白いんだよとか今日は彼女が居なくて寂しいねとかになっていく。自分がそのような関係の中に居たいのだと気づかせてもらったものを、お裾分けするような気持で広げていったんです。

──公演というものは、観客席に誰が座ってもいいわけです。舞台に立つ役者も、誰々にしかできないという固有性は必ずしもない。ワークショップも応募さえすれば誰でも参加できる。けれども、誰もが可能だということはその分、誰でもいいという話でもあり、この人がいないと開演できないっていう話にはならない。この「入れ替え可能性」は一種の近代的システムなんだけれど、集いやすさと同時に虚しさもあると思うんですよね。喫茶カプカプがその点で面白いと思うのが、地域に根ざす形で「カプカプ劇場」という日々の営みの演劇が上演されている。「入れ替え可能性」が近代的な劇場性だとすれば、ここはそのベクトルとは別の、この人でないと、という固有名性が機能しているわけです。

鈴木 公演やワークショップにも固有名を持つ他者を大切にしているものも、もちろんあると思いますけど。僕が演劇を観ていて嫌いなのが、物語を成立させるために登場させられたキャラクターというもの。そういうのを感じた時にこの作り手は何を大切にしたいんだろって不信感が湧く。作品の流れや抑揚や論理的整合性を気にするあまり、キャラクターを消費するみたいなの。悪い奴やどうにもならないクズを描くなというのではなくて、それを物語のために従事させるというのは、本当にセンスないなと思う。

──ここで日々起きていることはそういう単なる役柄のコンポジションではなくて、生きている個々の人が自己表現をし続け、またそれを受け止め続けていくという作業ですよね。そりゃあ、一般的な演劇よりも、遥かに面白い場だろうなと思う。

鈴木 それは障害どうこう関係なく、人間っていうものが面白いからなんだろうなって思います。なので、物語を紡ぐという場合に、たとえフィクションだろうが、人間に対して敬意がないという作品は、意表を突いててびっくりさせられたって、勧善懲悪なんてものでカタルシス得たって、観る前と観た後で自分が何も変わらなければ、揺さぶられもしない。世界の見え方が一ミリも変わらないようなもの、それは消費されるために生み出されたもので、まさに感動ポルノと同根のものです。せっかくダメダメな登場人物のことを愛することができたかもしれない機会を、みすみす逃しちゃうのはセンスがない。そんな作り手は信頼できません。それどころか、そんなものを作り続けていることで、豊かな関係性の方へと向かえないわけですから、自分自身にとって本当に残念なことをしてるよって思うので、その人への働きかけとして批判的な批評を書くこともあります。

──色んなお話を聞かせてもらいました。鈴木さんの発想には揺るぎないところがあって、その強さをBONUSの中に取り込めたら、と感じました。芸術について考えるときに、どこまで芸術を芸術と思わないか、ちゃんと社会との関わりの中で考えられるか、ということが重要かなと。規範意識に思考が凝り固まりがちな中で、色んな人が芸術に参加する仕組みを作ろうとした時に、社会と芸術とは別のものではないし、繋がっているものだしって、でもどう繋がっていると考えられるのかっていう話が、今日は聞けた気がしました。ありがとうございます。

©阿部太一

2017.09.14
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス④
堤康彦:ダンス・ワークショップは子どもたちと何をしてきたのか
2017.08.21
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス①
手塚夏子と考えたダンスと社会と「ワークショップ」の知恵
2017.07.03
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス②
「ダンサー」という謎の存在──長谷川寧と『ENIAC』と
2017.06.29
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス⑦
神村恵・篠田千明・砂連尾理:ワークショップをめぐる座談会
2017.06.12
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス⑥
鈴木励滋:オルタナティヴな劇場としての喫茶カプカプ
2017.06.12
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス
「ワークショップ」をめぐるノート(木村覚)
2015年、いまのダンスのかたち(Part 4)
捩子ぴじんのダンスのかたち
ゲスト:岩渕貞太、神村恵、鈴木ユキオ、捩子ぴじん
2015年、いまのダンスのかたち(Part 3)
神村恵のダンスのかたち
ゲスト:岩渕貞太、神村恵、鈴木ユキオ、捩子ぴじん
2015年、いまのダンスのかたち(Part 2)
岩渕貞太のダンスのかたち
ゲスト:岩渕貞太、神村恵、鈴木ユキオ、捩子ぴじん
2015年、いまのダンスのかたち(Part 1)
鈴木ユキオのダンスのかたち
ゲスト:岩渕貞太、神村恵、鈴木ユキオ、捩子ぴじん
オーラルヒストリーの会 第1回
神村恵入門