BONUS

対話を通してダンスを捉える
インタビューズ
「ワークショップ」が作る未来のダンス①
手塚夏子と考えたダンスと社会と「ワークショップ」の知恵
聞き手:木村覚

第4回BONUS超連結クリエイションでは、手塚夏子さんに観客参加型の上演を実施してもらった(2017年1月18日)。観客を促し、客席から離れてもらって、平らなスペースに座ってもらった。40名を超える観客が参加して、手塚さんの「ワークショップ」は始まった。選ばれた一人の観客が、誰かの身体のポーズ、動きを言葉で記述(トレース)すると、次にはその言葉を読み上げて、その他の観客はその言葉に自分の身体を合わせる(というセットを10回ほど行った)。〈観客〉が〈創作者〉へと変身した不思議な時間だった。
以下のインタビューでは手塚さんと、この日の短時間の「ワークショップ」と、そこに至るまでに、昨年の9月と10月に2回に分けて行われたワークショップを振り返った。ひとが集ったら自ずとそこには社会が生まれる。「ワークショップ」について考えることは、社会の作り方について考えることなのではないか。議論は、「ワークショップを行う際の知恵」を探しながら、ダンスの軌道を外れ、大きな弧を描きながら、進んでいった。


1/18のイベントのこと

木村ワークショップというのは、公演とは別にダンスの作家が自分の力を社会の中で表現できる場という気がしています。その可能性について手塚さんならではのお考えが聞けたらと思っています。まず、BONUSのイベントのこと振り返ってみましょう。手塚さんのあのパートっていうのは、こちらの予想を超えてお客さんが参加してくれて、とても面白い時間になりましたよね。

手塚うんうん、私は結構充実感を味あわせていただきました。

木村よかったですよね。

手塚私の作品に参加してもらうために観客の方に番号の付いたカードを渡しに行ったじゃないですか。その反応がいろいろあって、前に出てこない人も含めて、あれが自然な姿だなと思ったんです。みんながみんな同じように乗り気になれるってわけじゃないから、人によっては疲れてたかもしれないし、前に行くとかそういうのやだみたいな人もいるだろうし、色々だと思うんですよね。
で、その、舞台に出てきた人はもうみんななんていうのかな、「やるよ」っていう顔してくれてて、

木村ね、あれはすごかったですね。

手塚めちゃめちゃ心強かったです。力が湧いてくる感じがしました。でも後ろに行くと段々それがこう薄れてきて、

木村なるほどなるほど

手塚その客席のほうでは、なんかそれぞれな顔をしてるんですよ。

木村手塚さんがああやって、番号のカードを配ってるのは、手塚さんとしては色んなお客さんを、観察するっていう目的もあったんですか。

手塚つくった時は状況も予想つかないし、それらを観察するつもりなんか全然なかったです。今回やりたかったのは、お客さんに誰かの体を観察したことを文章にしてもらって、つまり、その文章通りに動く事が、ある人の動きをトレースした事になるようなものを書いてもらって、実際にその指示を読んでもらった時には、その指示に従ってトレースをしてる人と、トレースしてない人がいるような状況を作って、参加している人たちの中でもその差がわからないっていうのがやりたかったんです。そのために、トレースする人としない人が出るように番号を無差別に配りました。
実際、お客さんに手渡した時に、あまり乗り気じゃない人に私がそれを渡すというコミュニケーションにちょっと感じるものがありました。そのあいだ。人によってはちょっと寝たふりしてる人がいたり、でも私の方も最初から諦めてもいないし、でもかといって強引に参加させるっていうのでもなくて、「一応私はこうやってコミュニケーションとるけどあとは任せた」みたいな感じじゃないですか。そういう、コミュニケーションの〈グレーゾーン〉みたいなところがね、今一番大切なコミュニケーションの可能性なのかもしれないと思ったりしました。

木村あぁ、なるほど。〈グレーゾーン〉ってあまり意識しない部分かもしれないですね。

署名のための訪問で

手塚うん。お客さんのことからちょっと思い出したのは、私は糸島の地元で原発関係の署名をやったんですよね。で、知らない人の家のドアにトントンってノックしていって署名してもらいに行くんですけど。

木村すごい。訪問で署名を募っているんだ!

手塚そうそう。玄海原発から我が家までは30キロほどしかないんですけど。
で、もうすごいやだなぁ、胃が痛い、みたいなかんじで、二人組になって行って。今糸島では、原発の再稼働に賛成するにしても反対するにしても、それに対して意見を言う権利自体がないんですよね。佐賀県と玄海町にしかないんです。

木村他県だからってこと?

手塚そうです。佐賀県にあるので、福岡県である糸島市は…

木村ものを言いにくい、と。

手塚ものを言いにくいっていうか、行政に権利がない。行政に原発に関しての発言権がない、糸島市にない。だから、糸島市にせめて意見を言える権利をください、っていうための署名をしたんです。つまり、原発に反対にしても賛成にしても。例えば賛成っていう意見だって言えないわけですから、だから賛成の人も署名してもらっていいっていう意味で、署名をしてもらうっていう。

木村「自分の意見を表明する場をつくりましょう」って促す活動なんですね。

手塚だから、それがあるともうちょっと対話がうまれるんじゃないかと。糸島の人たちの中でもどうなんだろうっていう対話ができるんじゃないかってことでやったんですよね。でも、そういうことにあまり興味がないわけじゃないですか。で、その興味がない人に、本音を言えばもうこっちも諦めてるっていうか、そうやすやすと署名をもらえるとも興味を持ってもらえるとも思ってないけど、一応行くんですよ。

木村お互いさま気持ちが合うとか、最初から思えない感じ。

手塚そうそうそう。でもわかんないんですよ。例えば、「あー、この家なんか門構えから勝手に想像してダメそうだなー」とかね。勝手に思って、でもピンポンて鳴らして、話ししたら、「あー、私は原発のことは本当に反対なのよ!」って言って、話してくれる人がいたりもする。だからわかんなくって。あるいは例えば、一人で、もうよぼよぼのおじいさんが、玄関のすぐ隣にトイレがあって、ずっとトイレに座ってるんですよ。開けるとトイレしてるとかじゃなくて、トイレに座ってるのね。そういうおじいさんがいたりとか。あと、「なるほどね! でも僕は署名しないよ!」とか言うおじさんがいたり、とにかくいろいろな人がいるんですけど、そのコミュニケーションをちょっと思い出したっていう。(笑) 私の今の課題はですね、がっつりコミットできない人とどうコミュニケーションをとるかっていうところだなって思ってて。

木村うんうん、おもしろいですね、それ。

手塚つまりノリがね、ひとつのノリだったら、そのノリに乗れる人はみんな乗るんだけど、乗れない人はもう、冷めた目で見るとか、あるいは排除されてるように感じるとかっていうそういう風になるっていうのがあって。で、なんでもそうだと思うけど、トランプのことでもなんでも、反対派でフィーバーする人もいれば、そうじゃない側の人もいる、とか、そういう風にコミュニティーが分断していく。だから、その、なんていうのかな……ノレる人をいかに増やすかっていうことじゃなくていいんじゃないかっていう風に、なんか逆に思ってきたんですよ。つまり、ノレる人をいかに増やすかってなるとよりそのノリを強くしていこうとするじゃないですか。

木村「『いいね』を増やそう」みたいなね。そうすると同調する力というか人を寄せる「エサ」というか、そういうものを意識しすぎてしまう。

手塚あるいはすごいこう過剰なカリスマ性とかっていうことになってくるじゃない? で、そうなると逆にちょっとこわいとかっていうのもあるし。

木村賛成派も反対派も少し距離をとってみると、同じような顔をしている、みたいなね。

手塚たしかにね。(笑)

木村どっちかではなく、どっちにも乗れないなぁって思ったりするっていうかね。

手塚そうそう。どっちも結局そのノリの中心って結構なんかこう、「あー、なんかちょっときついなぁ」って思う時あるじゃないですか。ノリの中心、みたいな。だから、そういう風じゃないコミュニケーションっていうか、かといって、なんかもう均一で全部真っ平らなっていうんでもなくて、色んな濃淡があったり、違いがあったりする、そういった人とのいろいろなコミュニケーションっていうことに興味があるんです。

木村なるほど。BONUSでは、それがやりたいんですよ。ふつう公演というのは、作家が1年くらいあたためたものを作品に昇華して、観客はその成果を受け止めるみたいな、そういう関係性の場ですよね。もちろん全否定する気持ちはないんだけれど、BONUSがやりたいのは、「公演」というゴールに向かうプレッシャーから自由に、ダンスを創作する「遊び場」というか、そういう場づくりがしたいなぁと。もちろん、「なんだ、作品じゃないんだ」とかね、お客さんには不満をもつ人もいるでしょう。僕としては、既存の尺度とは違う尺度をお互い発明したいみたいな気持ちがあるわけです。だから、もやもやした場になるだろうし、”固まらないもの”をお見せすることにもなるだろうし、僕の狙う面白さがまだ確立できていないんだなあと思う。

手塚うんうん。

木村と同時に、手塚さんが言ってくれたような、お客さんとの少し緊張感のある対話みたいなことが発生したなら、それは収穫だなと思います。だから、何か一つの価値に人々を誘おうってあまり思ってないんですよね。平倉圭さんとのアフタートークで気づいたんだけど、僕は何かの価値を世の中に訴えたくてこれやっているわけじゃ必ずしもないんです。見た人にはその点の物足りなさがあったかもしれない。でも、Aの価値が正しいからBの価値を否定するっていうことがしたいのではなく、いろいろな価値の発生源みたいなものにBONUSがなって、グツグツと沸き立っていくような状態が目指したいんですよね。だからそういう意味で、「トランプ以降」の時代への態度ということかもしれないけれど、単純に「Aに賛成でBには反対だ」とか「Bに賛成でAには反対だ」っていう、どっちが正しい/間違っている、どっちが勝者/敗者という姿勢をずらした方がいいような気がするっていうかね。

手塚そうね。本当そう思う。

木村緊張感があるお客さんとの関係っていうのは、別の言い方をするとお客さんが自分を出してくるというか、そういう話でもあるよね。

手塚そうだね。

木村お客さんは舞台のスペースにどんどん来てくださいねと手塚さんから言われてしまう。来ない自由ももちろんあるわけだけど、で、来てどうするかってこともお客さんに委ねられていて、結構色んなグラデーションがあった。それ自体が、お客さんが「自分は何者なのか」ってことを自ずと表明する場になっていた。しかも「社会的に(表明する)」っていうよりは手塚さんに対してさりげなく表明しているという感じも面白いなって。

手塚そうね。

木村手塚さんの役割を通して、あの日のBONUSってそういうものだったんだっていうのが今分かった感じです。

手塚これは良いものか悪いものかっていう風に、そういう緊張感っていうんじゃなくて、それぞれがお客さんも無理しなくていいっていうか、無理に乗るっていうんでもないし、無理に反発するっていうんでもなくて、いろいろな想いを抱いていいって思えるっていうのはいいですよね。だからいろいろな反応の仕方があってもいいっていうこととかも含めてね。

木村僕の側から見てると、参加してない人が座席の方にいるし、でも結構な割合の人が前に出て参加してくれたし。いろいろな人がいる状態でしたよね。それが面白い空間だった。多くのお客さんは、その場に参加した分、傍観できなかったわけだけれど。

手塚でもね、その参加してくれてる中の人でも混んでしまっているところのひとたちは、通路のところに座ったりもしていて、なんか、湖に注ぐ川みたいにだなって思ってすごくうれしかった。

木村(笑)「支流」みたいな。

手塚なんかさ、お客さんすごいなーっていうか、ありがたいなっていうか。で、しかも私もあの中に入っちゃった。自分もお客さんの中に没入しちゃったから、それも自分の中でも思ったより良くて、全体像が見れる位置じゃないんだけど、でもお客さんはお客さんなりに自分の場所から全体像を見ようっていう気持ちは絶対あると思うんですよね。みんな部分で自分のやるべきことがあったりするけど、でもそれも含めて全体をみようとしたりとか、今やっている人をみようとしたりとか、それこそ今あまり見る気のない人について考えたりとかするだろうし。そういう、それぞれの人がそれぞれの場所で色んな視点を持っているような感じっていうのが、私自身があそこに居て、自分もやるべきことがあったり、でもやっぱりその全体に対してその目を配る気持ちもあったりするみたいな感じで、なんかその、そこに差異がなくなっていく感じとかすごい自分の中では良かったですね。

手塚さんのワークショップ

木村なるほどね。手塚さんに昨年の秋に東京に来てもらって2回ワークショップを行いました。「観客」というものの在り方を変えられないかなってところに狙いがありました。お客さんって何なんだろうって、よく思うんです。暗がりで目だけを動かし、ほとんど受け身の存在ですよね。その役割を全うすることで自分の欲望を満たす人ですよね。でも、ワークショップに参加するとなった時に、お客さんは単なる受け身の存在ではいられなくなりますよね。存在が揺さぶられるわけじゃないですか。BONUSは「ダンスを作るためのプラットフォーム」と称していますが、優れた作家が(ダンスを)「作る」というだけではつまらない、お客さん(つまり、一般の人)もまた「作る」側となって初めて、今日目指すべき「ダンスを作る」プラットフォームになりうるのではないかという気持ちがあるんです。手塚さんはお客さんの可能性についてどんなことお考えですか?

手塚お客さんは、見てもらう側が思っているより、またお客さん自身が思っているよりさらに色んな可能性があるよなぁっていうふうに思いますね。だから、委ねられると、自分の意思なり、自分の何かやってみようみたいなところが引き出されたりする事があるなあって、私がいろいろお客さんを巻き込んだプロジェクトみたいなのを最近やってる中でたくさん感じました。

木村手塚さんが続けている芸能調査クラブ★1って、成果発表だと思ってお客さん気分で行くと「はい、このインストラクションあなたやってみてください」とかって、やらされるじゃないですか。(笑)

★1
芸能調査クラブ:http://natsukote-info.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html

手塚(笑)

木村クラブのメンバーとかが見てて「こうじゃないと思います。」とか突っ込んだりして。演者側と思っていた人が観客側になり、観客側だと思ってきた人がお金払って演者側になっているっていう、あの反転する図がとても面白い。ワークショップを考える上で僕の一つのモデルですね。あれ、大胆ですよね。

手塚(笑)なんか、そういうふうに狙ったってわけじゃなくてあれも成り行きでそうなっちゃったんですけど。つまり、実験をするってなると、仲間内だけだと意図も分かってるし実験にならないんですよ。どうしたいっていうのはもう分かってるから。だから初めて聞いた人がやった時にどういうものが出てくるのかっていうこととか、あとたくさんの人が同時にやった時にどうなるのかみたいなのはやっぱり実験したくなるんですよね。メンバーがね。それで成り行きでそうなったんですけど。

木村だから、観客ってそういう意味では未加工でフレッシュな存在なんですね。

手塚そうなんですよね。

木村被検体としてフレッシュな存在。

手塚そうそうそう。先入観がない人として、参加してもらってるみたいな感じ。(笑)なんかお客さん怒るんじゃないかっていっつもねハラハラするんですよね。で、私は怒らないような言い方とか、怒らないような段取りとか割と私なりに考えるんだけど。
なんかメンバーによっては、すごいお客さんを巻き込むのが怖いもんだから、「はい、やってください!!」みたいな、逆に、こう、自分が怖いもんだからさ、なんかその、脅迫的になったりとかするから。

木村余裕がなくなっちゃうわけね。

手塚そっちにいくなそっちに! っていっつも思ってドキドキするけど。でも、案外やってくれてるよね、みんなね、割と喜んでっていうか。

木村お客さんて、ちょっとマゾヒスティックっていうか「操られたい」っていう思う部分があるのかもしれない。

手塚でもね、結局そのお客さんと演者の線引きがなくなっちゃうので、その雰囲気がすごく楽しくて、毎回来ちゃうみたいな人もいますよね。

木村そうだよね。いつの間にかメンバーになってる感じとかね。

手塚で、しかも芸能に関することやってるから、なんとなく分け隔てない感じの空気がなんか醸造されて、色々なことが言えるようになってくんですよ。で、むこうもバンバン色々言ってくるしみたいな。

木村なるほど。手塚さんが伝統芸能とか祭りとかに興味をもっていることと、今日最初に話してくれたような原発の署名をもらうのに訪問をしたりしたという話とか、要するに社会的に自分が社会の中に入って、社会を動かすみたいなことに今動かされている部分があるっていう話、そこらへんがすごい気になるんですよね。観客を変えたいっていうのはある意味では劇場の関係性から自由になって、劇場とは別の形のコミュニケーションを観客とつくれないかと考えているわけです。例えば、祭りは、見る人も踊る人も混然一体となるような空気が醸成される場ですよね。「芸術」「劇場」って概念に捉われなければ色んなコミュニケーションの形はあるはず。

手塚それはだから、人と人の関係っていうのがかつてのみんなが本当に一緒になって踊ってたみたいな古い芸能の時の身体感覚と心の有り様みたいなものはなんかもう失ってしまったみたいな感じはあるんですよ。
で、しかもその共有できる何か決定的な、そういうのって例えばその宗教っていうか神様だったり、信仰だったり、あるいはすごいずっと続けてきた習慣だったりっていうものがあるわけだけど、そういう風に共有できるものを私たちはほとんど何も持っていないっていうのがあって、まぁ、スマホぐらいかな、分からないけど(笑)

木村でも孤独ですよね。一人一人が勝手にやってるだけだもんね。

手塚そうそう。だから、そういう共有できなさみたいなのとか、あと本当にノリが、さっきも言ったように、同じノリの人がぎゅっと固まる、例えばアニメオタクならアニメオタクだけとかいう感じで、何かそれぞれの自分の乗れるものにぎゅーっと人が集まってそれ以外の人とは全然コミュニケーションが取れなくなるとか、そういう風に、ゆるく共有できるような、つまり共有することで場が生まれるような環境をつくるのはすごく難しくなっているとは思っていて。だから、そういう現代に生きる私たちがどうやってゆるく繋がるのかな。で、ゆるくっていうのは、そこをなんかすごいコアな繋がりみたいなものを求めちゃうとそれはそれですごい怖いことなので、で、コアに繋がるのが怖いからじゃぁもう個人個人っていう風になるのもすごく極端だなと思って、場が生まれていって人が出入り自由にできるぐらいのゆるさの、そういう人と人との繋がりっていうのが、私が今そういうことが本当は大事なんじゃないかなと思ってるってことかな。

木村私たちの対話は、前人未到の新しい動き、新しいダンスを作るというよりは、場を作ることが創作的なんだっていう発想で進んでいるわけです。エッジの効いた踊りを作ることに意欲を滾らせる振付家もいるかもしれない、それを否定するわけじゃないけれど、そういう誰も寄せつけないものというより、むしろ場を緩めていく設えっていうのかな、それも一種の振り付け、場の振り付けというか。緩くする秘訣、ぎゅっと締めない秘訣って何ですかね。

「足りない」ことが生み出す能動性

手塚そうですね。目的意識をあまり持ちすぎないってことかなっていう風には思うんですよね。「ここはこういうのが、これがコンセプトだから叶えさせるように持ってかなくちゃ。」とかっていう風に思いすぎると、すごい緊張感が生まれると思うんですけど、例えば、「お客さんに参加してもらってお客さんにこれを感じてもらわなきゃいけない」っていう風になるとすごくそこに緊張感が生まれると思うんですよね。だから、いかに目的意識に縛られすぎないかっていうこと。だから、あの設えも一応自分で考えたわけだけど、実際にそこで起きることは私には計り知れないことがいっぱいあるまんま、やってるわけじゃないですか。で、そのことによって、「あぁ、ここでこうなるんだ、お客さんの濃淡が面白いなぁ」っていうのは、私がそういう風に思える状態っていうか、そういう心の余裕がないと。例えばそこで、「お客さん前に来てください! どうして来ないんですか!」みたいに私がなっちゃったら全然ゆるくないし……

木村手塚さん自身がそういう「発見する身体」になってるっていうか、その場で起きてることに気づける身体になってるということは、大事そうですね。

手塚そうですね、自分が、求めてるものって自分でわからないことがいっぱい常にあるから、案外こういう全然、こういう人たちにこういう渡し方するって想定してなかったけど、ここに案外今回の面白さのポイントの一つはあるのかもしれないっていう風に思ったので、すごいそれが自分の中でよかったな、自分にとってなんですけど。

木村あとあれだね、あのインストラクションていうか、一種のゲームみたいなインストラクションは、ようは「観客」である人を「ワークショップの参加者」にして、その上で「近くの誰かを言葉でトレースして下さい」と促す、というものでしたよね。で、結構その12人、やってもらった各人の言葉が多種多様だったじゃないですか。

手塚そう! すごいおもしろかったー!

木村あれすごいよかったよね。ああなるんだって感動しました。観客ってすごいポテンシャルあるんだよね。

手塚そうそう、しかもあのときさ、ペンというか書くものが無くて、どうしようとか言って、「じゃぁあのー、持ってる人優先で」ってとかって言ってグダグダになって、で、グダグダになったらふつうなんか、「えーっ?」っていう空気になってもおかしくないのに、案外みんなそれを楽しんで、「あ、じゃぁ俺書きます」とか言って率先してペン持ってる人がやってくれたりとかするじゃないですか。つまり、足りないところがあったらじゃぁそこで足りないところを補い合うってことだな、みたいに、それってなんか人との関係においてすごいポテンシャル高いことだよなって思うんですよね。

木村そっか。だから「整ってない」って結構大事なことですよね。

手塚うん、そう。(笑)

木村東日本大震災が起きてからの1ヶ月とか2ヶ月ってもう色んなものが整っていなかった。東京でもそうでしたよね。そうすると、「これどうしよう、じゃあ自分で作るか」とかさ、能動性が突然発現したりしたわけです。あの時の1ヶ月とか2ヶ月の日本人よかったな、とか思ったりするんだよね。「足りないことがもたらした効用」かもしれないですよね。でもイベントで足りない状態をつくるってチャレンジングですよ。今回も、会場の作りで、湖の支流みたいに座ってる人を作っちゃうみたいな話もそうだけど、整ってないから生まれる場のよさってある。

手塚あるある。私、案外そういうほうが好きだな。なんか全部をこうなったらああなるだろう、こうなったらああなるだろうってもう計算づくで、「あ、すごいなっ」っていうのも多分世の中にいっぱいあるけど、なんかそれよりは足りないことによって起きてる面白いものがその場をつくってるみたいなのが好きかもです。

木村そうだよね。だから「足りないぞー」「ここの舞台監督何してやがんだー」みたいなのは、お客さんが「お客さん」のままでいる状態ですよね。

手塚そうそうそう。そういうことだね。

木村お客さんが一旦「お客さん」を止めて「ないのか、じゃあ俺の鉛筆出すわ」と身体が動くということは、その人の能動性が発動されたということですよね。この能動性や主体性をどうやって引き出せるか。アートの分野で「参加型」とかよく言うけど、得てしてあてがってくる何かに従うだけのことを参加としがちじゃないですか。教える側と受け取る側に単純な二分法にならないために、本当は「ワークショップ」というやり方があるはずで。

手塚そうだよね。

木村そうしたことをなんかうまく引き出せるといいですね。 それはそっか、単純に「足りない」ってことが大事なんだ。

手塚だから、自分で全部やらなきゃって思いすぎないってことだよね、きっと。わざと足りない部分を設計するみたいな、それはそれでなんか。

木村やりすぎだよね。

手塚自分で全部やろうとしなければなんか足りないでしょ、ふつう。

木村(笑)そうか、自立の反対の依存。自ずと発生した依存の状態は、別の誰かの主体性を促すことになるかもしれない。

手塚そうだね。だから別の言い方をすれば、関係が場をつくるようになるっていうか。例えば私がワークショップなりなんなりの、私が全部その場をつくるみたいなことじゃなくて、その場で起きていることが、あるいはその場で起きている私とそれぞれのお客さんの関係とかお客さん同士の関係とか木村さんとお客さんとの関係とか、そういうものがその場をつくるっていうことだから、足りないっていうのも関係を醸造する要素の一つってことじゃないのかな。 誰かが足りなかったらそれを誰かが補うっていう関係がそこで勝手に発生するっていうかさ。

木村えてしてね。なんか世の中はパイの奪い合いとかいうけれども、むしろ一回切ったパイを供出し合いする、みたいなね。

手塚(笑)

木村「これ俺のもんだけど、いいや~あげるわ」みたいな、話ですよね。それなんか大事な話だなー。最近、劇場にいて、単なる受け身の「お客さん」でいることの虚しさを感じるんですよね。

手塚(笑)そうなんだ。

木村だからといって、自発的に主体的に自分で作ったダンスを踊りたいっていう話でもなくて、ようは、さっきからずっと言ってる話ですけど、見る者と見られる者の関係の固定されたあり方がつまらなく思える、というか。そこから自由になった上で、観客である自分はどんな存在であることができるかって思うんですよね。「足りない」ことね。何か他にありますかね。

手塚なるほど。私、場でしゃべるときの自分の身体の使い方ってなんとなくあるのかもなって。というのは、あまり意識的にしてないんだけど。調査クラブとかで自分が司会をすると、私が司会してる時、割とみんな緩んでる風に割となるんだけど、他の部員の人とかでやると結構そうならなかったりする。お客さんはお客さんでかたいままだったりとか、引いてたりとか、わりとするんだよね。だから、それは、関係の方に意識が自分が向いてるってことかなーとは思うけど。

木村それってどういうことなんですか。「関係の方に自分が向く」って。自分に向かないで関係に向く?

手塚つまり、自分にしてもお客さんにしても、自分に向くにしてもお客さんに向くにしても、個に焦点が当たってるわけじゃない。このお客さんは喜んでるのかな、あるいは怒ってるのかな、っていうのもそうだし、”私”はどう見られてるのかなっていうのもそうだし、そのそれぞれ”個と個”みたいになりがちだけど、つまり、人っていうのはAとかBとかCの点だとしたら、AとBの間、BとCの間とか、あるいはそれぞれAとBとCの間とかっていう風に、主体じゃなくて関係の方に意識が向く。極端な話、実際そういう風に自分がすごく意識を集中してそれをやってるとかいう意味じゃないんだけど、でも、徐々にそういう風にはなってきてる気がする、自分が。

木村それって運動の状態っていうか、動的な状態だと思うんだけど。別の言い方をすると、「手塚さん」「木村」がここにいるとかっていうのは静的なものの認識だと思うんだけど、喋ってる時にお互いなんかこの辺りでしゃべってんなみたいな、どっちとも言えないような、距離というか、間があるわけじゃないですか。それを意識するって話ですよね。対話という運動をしている状態を意識するっていう話ですよね。
昔から「自分はなんでダンスに興味があるんだろう」とか思う時に、別にいわゆるエステティックな運動の形式に興味があるってわけじゃなくて、あえて言えば関係が運動している状態に興味があるんだよね。ずっとそこのことだけ気になってて、ダンスを見てて、自分ではそれこそがダンスだと思ってるところがあるんです。でも、それってうまく説明ができない。手塚さんは、若手に「いま堅いなこの人」とか思う時、つまり「関係に意識が向かってないな」ってときにどんなアドバイスする?

手塚何もアドバイスはしないね。(笑)
どうアドバイスをしていいのか……ただ実験をつくるっていうときに、つくっているそれを人前でやるときに、自分の責任として公の場でしっかりと価値があると認められるようなものを出さなきゃいけない縛りをしてる人が多いからね。そのときはもう本当に観てる側も全然楽しくないのよ、その実験をね、そうなっちゃうと。全然そんな必要はなくて、自分で本当はどうなんだろうって思っているプロセスそのものがただそこにあればいいだけなんだから、で、それ自体をお客さんと共有することもできるし、そうするとお客さんの側からも、「あ、でもこうなんじゃない? ああなんじゃない?」っていうなんかちょっと思うところは出てくるし、それをまたそこで交わらせることもできる。そうすると実験が〝Aさんの実験です。私の成果です。〟みたいなことじゃなくて、その関係が実験を育てるみたいな感じになってくるんですよね。

木村なるほど。

手塚私は手塚夏子っていう名前で作品をつくって上演してるし、それに対しての責任も負ってるし、評価も自分で得ることができるわけなんだけど、それだけだとね、さっき木村さんも言ったようにお客さんとやり手の関係はすごく固定された感じになってくる。そうじゃなくて関係がその場をつくってるとか関係がその作品をより立ち上げてるみたいな風になった方がね、生産的というか、お互いにすごくクリエイティブな気持ちになれるものだし。どうしてもね、「アーティスト」っていう稼業自体が個人名で売っていかなきゃいけないみたいなさ、名誉とかも含めてそういう思考になりがちなんだけど、私もそれがゼロとはもちろん言わないんだけど、全然そうじゃないところにある面白さの方が私自身がワクワクするなーっていうのはあるんですよ。

木村うんうん。

手塚だから、実験を知ってる人にはそこはすごく言うんですよね。自分もよくわからないみたいなところに踏み込みながら、よくわからないっていうことも全部言いながら、あるいはここにこういう問いがあるんだけどお客さんに聞いてみたりもしながら、実験を開いていけばいいんだよって。そこで何の責任を負う必要もないんだよっていう風には言いますね。それで、本当にそれが知りたいの? って何度も聞くし、そうすると実はそうじゃなかったみたいなことも多いんです。自分が本当に知りたいことを誤解したままプレゼンテーションしていたり、評価につながることをプレゼンするほうがいい、みたいに捉えてしまってることもある。そうならないで、本当に問いたいところが自分の中ではっきり表れてる状態でお客さんと対峙していけばいいじゃんっていう。そうするとお客さんは作り手が混乱しているような状態でもさ、それを見ながら自分はこうだよああだよとか言ってくるんですよ。やっぱりそこに足りないものがあるので。そうするとすごく面白い場になるんですよね。

木村今のお話、この一年のBONUSの指針をもらったような気がします。今の「関係」の話ね、関係がちゃんと湧き立ってる空間こそがクリエイティビティーの発生現場だと思うし、自分はそういう場所に居合わせたいだけなんだよなって思ってます。その意味で、ヒントが一杯つまった話を聞かせてもらったと思っています。
まさに「関係」の話、「対」の話で、お客さんがあなたの投げてきたボールを受け取りたいっていう受動的なままであるとすれば、反対側では、俺ってすごいだろとか、俺の技を見てくれとか個人名義の価値ある何かを生み出した私というか、そういう静的な関係しか生まない舞台に僕は飽きているんだよね。「この人がすごい」っていう話って、良い例えかわからないけど「オフラインのパソコン」って感じするの。つまり、そのパソコンの中に入ってるデータが優れてるものかもしれないけど、オンラインじゃないから他者と上手くシェアできないわけ。作家たちの力量が誰かのものにはならない形で披露されている。だから、「すごいねー」とは言えるんだけど、「これ面白いアイディアだね俺も使ってみたけど面白かった。」とは言えない。
この状態は今の時代ではきついなというか虚しいなみたいに思うわけ。シェア可能性は必要だろうと。その志向性が明確になれば、パフォーマーの側は自ずと変わるだろうし、観客も変わるだろう。そうなってはじめて両者の関係が運動的になっていく。それが見たいんだよな、ということが確認できました。ありがとうございました。

手塚ありがとうございます。

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