BONUS

対話を通してダンスを捉える
インタビューズ
モントリオールに滞在中の舞台監督・河内崇さんと「劇場」を考える
聞き手:木村覚(BONUSディレクター)

「分断」と「ゾーニング」の意識が高まっているように思われる今の私たちの暮らしの中で、劇場には何が可能なのだろう。BONUSはマイペースながら「観客」の潜在的な可能性を考え続けているけれど、それも才能を持つ「アーティスト」と持たざる「観客」(今はまだ劇場に来ていない潜在的な観客も含む)とが、分断しないで協同し、共生できるための思想や実践案を探したいからだ。そのためにまず、今の劇場をめぐる日本の現状を把握したい。海外の現状と比較できたら、その理解は深まるだろう。そう考えて、現在モントリオールに滞在している河内崇さんにインタビューをお願いした。BONUSのイベントでなんども舞台監督をお願いして来た河内さんが、打ち合わせの時にしてくれる何気ない話の中に、河内さん独特の「視点」を感じていた。その一端が垣間見える対話になったと思う。普段は裏方を徹しておられる河内さんが考える劇場とは?


取材日:2018/12/6(FBメッセンジャーにて)
聞き手:木村覚(BONUSディレクター)


なぜアゴラで研修しているのか

木村日本でダンスの批評文を書き始めて20年近くたち、またBONUSというプロジェクトを始めてみて、今、日本のダンスについて僕が思うのは、一定の滞り状態があるのでは、ということです。印象という点も強いので、このことをちゃんと確認して、滞りがあるのならその原因を突き止めて解消する必要があると思うのですが、そのためには自分たちの状況を相対化する海外のダンスの状況を知ることが有効だと考えています。そうすることで、こうでないといけないという自分たちの思い込みから自分たちを解放できるのではないか、と。そんな気持ちから、今、モントリオールで研修中の河内崇さんにお話を聞こうと思い立ちました。よろしくお願いいたします。

河内よろしくお願いします。今、僕がいるアゴラ(Agora de la Danse)★1には、芸術監督にフランシーヌ・ベルニエがいて、プログラミング補佐と、ゲスト・キュレーターの3人でシーズンのラインナップを計画しています。特徴としては、作品単位でプロジェクト化されていることと、アーティストが創作に集中できる環境が整っているということが挙げられると思います。それが成立している理由としては、芸術監督のもつ機能によるものだと思います。フランシーヌは四半世紀にわたって、モントリオールを拠点とするアーティストの創作環境を整えてきた人です。

★1
アゴラ:https://agoradanse.com

木村「集中できる環境」って具体的にはどんなことなのでしょう?

河内2~3年後のラインナップを視野に入れて、アーティストとコミュニケーションをとっています。ピックアップしたアーティストと、長期的なヴィジョンを共有しながら意見を交わすのですが、フランシーヌの経験と、長年にわたって培われたネットワークが、アーティストの創作の可能性を拡げているのではないかと思います。

木村時間をかけてアーティストと作品を育てていく意識があるんですね。

河内それぞれの作品の寿命が長いと感じています。ひとたび上演して終わりではなくて、カナダ国内のみならず世界各地に展開させてゆくことが創作のプロセスに組み込まれていて、そこは日本との違いとして言えるんではないでしょうか。そうすることで、アーティスト自身が経験を積み重ねていくことにつながりますし、また経済的な面でも支えになるわけです。アーティストの生活には、創作と興行の両面があると思います。それでも、彼らにとって一番重要なことは、作品の完成度を高めることなんだなと強く感じます。そしてそれは彼ら自身の興味から始まります。もちろん、公に発表するわけですから、必然的に社会との関係が問われますが、いわゆる『社会貢献』が第一義ではないということです。

木村作品作りの理念に忠実に生きている、ということですね。

河内たとえば、制作資金を調達しようとするときに、日本では、公演のために助成金を申請するという考え方が一般的だと思うんですが、こちらでは「作品を創るためには資金が必要なんだから、政府なりアーツカウンシルが支援するのは必然性がある」という考え方です。さらにつけ加えると、結果的に観客のウケがあまり良くなかったとしても、客席は埋まっているんですね。

木村おお、それはどういうことでしょう?

河内このことには、フランシーヌの考えがよく顕れていると思います。アゴラに来るお客さんというのは、もちろん一概には言えませんが、アーティストの知名度によってということでなく、アゴラのラインナップを観に来ている人たちではないかということです。彼女は「日々のクリエイションが、財産になる」と言っています。公演に先行して新聞にはプレビューが掲載されますし、ティーザー映像(広告を目的に作品の要素を編集した30秒から1分程度の映像)が公開されるので、前情報としてあるわけですが。

木村あるアーティストのファンとか支持者たちが集まるというよりは、「見に来たがつまらないから帰る」というお客さんもいるという前提で進んでいるわけですね。

河内そうかもしれません。観客と劇場との関係性なんじゃないでしょうか。

木村アゴラのラインナップを見に来るということですよね。基本的な信頼関係がお客との間にあるということでしょうかね。年間パスポートがあって、それを買ってくるお客さんが多いということでもあるのかしら。

河内一公演当たりのチケット代は、公演1週間前までのプレセールで28ドル(カナダドル:約2,400円)、レギュラー価格が35ドルです。シーズンは9月から翌年5月までで、今シーズンは18作品がプログラムされています。

木村日本国内でピナ・バウシュの公演を一作品20,000円のチケット代払って見るのと考えると、同じ値段で半年楽しめるという感覚と言えるかもしれませんね。

河内アゴラの向かい側にプラス・デ・ザールがあって、ここは6つのホールに7,000人以上を収容するスケールで、モントリオール交響楽団やグラン・バレエ・カナディアン、国際ジャズ・フェスティバルのメイン会場としてなど、比較的規模の大きな公演が行われています。

ワイルダー・エスパス・ダンス外観/上演作品に関連する映像のプロジェクション

ワイルダー・エスパス・ダンス外観/上演作品に関連する映像のプロジェクション

木村アゴラのキャパシティ(集客量)はどのくらいですか?

河内2つのフレキシブルなスペースを持っていますが、スタンダードな形状でキャパは158と78です。

木村世田谷のシアタートラムくらいの規模ということですかね。その規模の劇場で、3年がかりのラインナップが毎年半年をかけて上演されてゆくわけですね。日本の状況と比べると、アーティストが創作するのにとてもやりやすい環境があると想像できますね。

河内アゴラとともにワイルダー・エスパス・ダンスを本拠地としているタンジャン(Tangente)では、まだキャリアの浅いアーティストの実験的な作品が展開されていて、アゴラでは、こういう言い方でよいのかわかりませんが、国内外で実績を積んだ中堅以上がプログラムされていると言われています。この二つの機関のキュレーション上のパートナーシップが、モントリオールのダンス・シーンの一つの流れを生み出していると言えるかもしれません。

木村予算面、お金の巡りが良いのではと想像しますが……

河内アゴラは、ケベック・アーツ・カウンシル、カナダ文化遺産省、カナダ・アーツ・カウンシル、モントリオール・アーツ・カウンシルからファンドを受けている他に、ワイルダーへの移転(2017年)においては、ケベック政府、カナダ政府、モントリオール市からサポートを受けています。モントリオール市の市街地人口は350万人程で、外国からの文化が交流する場としての歴史、劇場文化が盛んなイメージから、日本では横浜を思い浮かべますが、文化行政のあり方やヴィジョンなどを比較するにはちょうどよいかもしれません。

木村横浜となぞらえてみると、アゴラってSTスポットと重なるような場所と想像してしまいますが……

河内先端的なパフォーミング・アーツを発信し続けているという点で、性格的に似ているところがあるのかもしれませんね。

仕込み開始前の打合せ
仕込みの様子/客席形状はフレキシブル

モントリオールの芸術表現と芸術観

河内アゴラはその名(Agora de la Danse)の通り、ダンス作品をやっているんですが、実際にラインナップされた作品を観ると、ダンス、演劇、メディアアート、パフォーマンスも音楽も要素としてあって、そういったカテゴライズが、ほとんど意味を持たないんですね。とにかく自分たちの創りたいものを創っているという感じで。こちらに来てから「danse contemporaine(コンテンポラリー・ダンス)」という言い方も、もちろんあるにはあるんですが、ほとんど聞いていない気がします。もともと映像文化が豊かな土地ですから、映像を使った作品が多い印象はありますが。

木村舞台だけれども、映像を噛ませるのはマスト、みたいな意識があるんですね。

河内「みんな映像好きなんだなぁ」という感じです(笑)。そういったものも含めて、アプローチは様々なんですが、日本で紹介されるなら「パフォーマンス」と括られるものが多いと思います。彼らの「創りたいもの」というのは、オリジナリティの強い作品です。僕がまだ知り得ていないだけなのかもしれませんが、たとえば伝統芸能の文脈や、前代に対するカウンターという意識はあまり感じません。ざっと振り返ると、ケベックでは1960年代に社会改革が進められて、その後1976年にフランス語憲章が定められて(1985年に改訂が行われている)、教育や文化においてもケベックの自意識というか、独自性が全面的に出て来るのがその頃でしょうか。(カナダからの)ケベック独立に向けた州民選挙が最後に行われたのが1995年です。

木村アメリカに行くと「若い国だな」と思わされたりしますが、カナダの若さ、特にそれがアメリカの影響下にあると想像すれば、例えば、ジョン・ケージ以降のパフォーマンス系・アートの系譜以降というのが、カナダの状況ということなんですかね。だから、ミクスチャーで、個別の芸術ジャンルにそれほどとらわれない姿勢が基本になっているというこうなんですかね。

河内ジャンル分けにはほとんど意味がありません。「アメリカの影響」とおっしゃられましたが、1980年代のフランスのヌーヴェル・ダンスの流れを汲んでいると考えたら、アメリカのモダンあるいはポストモダンから始まっている、とも言えるんじゃないでしょうか。舞踏もほんとうによく知られていますから。公開リハーサルや終演後のカフェ・バーでは、観客もアーティストも入り交じって、こんなことを言ったら怒られるかもしれないですけど、いわゆる『現代美術』の世界みたいにアート理論的な話を延々とやっている人もいます。基本的にフランス語ですから、僕は後追いなんですが……。そういうときに日本人の僕にとっては、森羅万象とか八百万神とか……

木村あるいは「歴史」や「記憶」とかね、

河内そうですね。そういうことをこれまでも考えていて、日本人にはそういうものが思考パターンのなかに自然とあるような気がするんですが……。それに対して、彼らは現代的というか、オルタナティブだなと感じます。

木村その対比は面白いですね。近代(モダン)から始まっている社会では、近代以前が意識化できないということですよね。今の日本のことを考えると、モダンはアートの世界に入り込むには必要不可欠な思考回路だけれど、でも同時に、それと距離のある面があって、葛藤を引き起こしたりしますね。例えば、日本の祭りに注目してリサーチするといった活動を手塚夏子さんがここ数年行っていますが、それは、そうしたモダンなアートの思考から距離を置きつつ、自分たちらしいアートを立ち上げるための取り組みだと思うんです。

河内はい。これは僕の体験の一つに過ぎないですが、たとえば日本の山岳信仰に興味を持ってリサーチをしているベルギー人アーティストの話をしたときに、それは彼らにとっては未知の世界なんですよね。日本は遠い。モントリオールは欧米に対するコンプレックスとか目配せはあっても、日本を含むアジアは自分たちの視野に入っていなくて、舞踏のことは知っているんだけれど、自分たちの身体性のなかにはないものとして考えているんじゃないでしょうか。彼らの意識というかヒエラルキーの外側にあるものだからこそ、興味を持つということはあるような気がするんです。

木村「エスニック」というか、

河内はい。「ジャポニスム」というか。対等に評価されても良いと思うんですけれども、なかなかそうはなっていないんじゃないかと。建築とかファッションなんかは、彼らにとって同じフィールドの上にあるような気がするんですが……

木村僕たちが然るべきインパクトをまだ発信できていないということもあるかもしれませんが、カナダがの人たちが持っているメンタリティからして、僕たちの表現が視野の外になってしまっているということなんでしょうね。

河内彼らのロジックというか体系のなかに、日本のパフォーミング・アーツを組み込むことは、委ねて待っていても、そうはならないだろうなぁと思います。舞踏にしてみても、アート理論のゲームの中に、こちらが理論化してマッピングしない限り、ジャポニスムとして評価されることはあっても、彼らの考えるアート・ワールドの内側に入ることはないだろうと。今自分が働いている場所での体感として、そう思います。

木村なるほど。

河内カナダの先住民の文化やアートが、こう言ってよいのかわかりませんが、今トレンドになっていて、ネイティヴ・カルチャーへの注目は全世界的な傾向のような気もするのですが、ケベックも同様です。これは勘ぐりに過ぎないのですが、ケベックの場合はこういった要素が組み込まれることで、助成を受けるための条件がよくなるというのはあるんじゃないでしょうか。ですが、本質的なコラボレーションには至っていないように感じます。「ネイティヴ」というカテゴリーの内にとどまっているというか……

木村ジャンルもの、ということなんですかね。

河内モントリオールで2年に1度開催されるシナール(CINARS)に、昨年(11月に開催)は55カ国からプレゼンター、アーティスト、オブザーバーが参加して、非常に国際的に発信力のあるパフォーミング・アーツの見本市と言われているんですが、ここでも「ネイティブ」に関するものが推されるわけなんですが、なんだかイケてない(笑)。同じくモントリオールで開催されている映画祭で観たもののなかには、リアリティーを感じられるものがあったのですが。

木村映画の方がネイティヴの人たちを記録し表現する伝統がありますもんね。ダンスにも、例えば、マーサ・グラハムや彼女の先達であるルース・セント・デニスなど、ネイティヴのダンスを取り入れた作家たちも歴史上いますが。

河内パフォーミング・アーツとして上演されることに必然性を感じなかった、というのが率直な感想です。

木村モントリオール界隈の舞台芸術の遅さという話でもありますかね。

河内今回に関しては、コンセプトというそれ以上でもそれ以下でもなかったんだと思います。

木村1990年代以降の芸術の流れを考えると、マイノリティ、特に民族的なものに光をあてるということがありましたよね。その結果として、芸術を行なっているのか社会活動を行なっているのかよくわからなくなるところもある。それがでも芸術活動なのだという視点を持った取り組みが、今日のコンセンサスを得た芸術活動かもしれませんが、モントリオールの芸術というのは河内さんから見ると、そうした葛藤以前の状態にあるということなんですかね。1960年代の芸術をルーツにする純粋芸術的な意識は高い分、それ以外の「不純」な芸術への意識は弱いということなのかな。

河内ここまで10ヶ月の滞在で、すべての作品を観ているわけではないので一概には言えないんですが、僕は、アーティストは作品を発表するからには、社会的責任と切り離されることはないと思います。僕が観たもののなかに『And So You See… Our Honorable Blue Sky and Ever Enduring Sun… Can Only Be Consumed Slice by Slice…』という作品があって、その作品のなかでは、資本主義、植民地、ユーロ圏が持つイデオロギー、ボーダー、ジェンダー、トランプに象徴される分断といった問題、が扱われていました。これはFTA(フェスティバル・トランス・アメリーク)に招聘された南アフリカ出身のRobyn Orlinによるものなんですが、こういった外から招かれた作品との出会いも、モントリオールのパフォーミング・アーツのシーンの一面なんだと思います。

木村モントリオール以外の作家によってその部分が補完されている、みたいなことですかね。

河内地理的には、南米、ヨーロッパ、アフリカ、北米西海岸には比較的アクセスし易いですよね。日本と比較すれば、運搬、渡航コストにおけるリスクというのは低いとも言えると思います。世界各地で生まれている新しい動きに反応して、フレキシブルに交流する。モントリオールが世界中のアーティストにとって北米の拠点になり、文化が混ざり合うなかで、モントリオールのアーティストは模索しているという状況なんだと思います。アジアは遠い。経度で言えば、モントリオールの反対側にあるのがインドネシアあたりになるでしょうか……。

木村小さい規模で良いので海外の力のある若い作家を呼んで作品上演を頻繁にしてもらいたいものですが、遠いアジアの一国である日本では、そう簡単にはいかないですよね。

河内もちろん、日本には先進的な活動をされているプロデューサーやキュレーターの方々がいらっしゃると思います。

木村そうですよね。確かに。遠さに負けないで、精力的に紹介しようとの活動ももちろんあります。さて、河内さんのお話を伺っていて、シンプルに、欧米に対して日本は遅れているということばかり考えていたんですが、一つ一つ細かく事象を見ていくと、モントリオールには良さもあると同時に「遅れ」と見えてしまう部分もあるわけで、当たり前だけれど、それぞれの都市には、それぞれの特徴があって、諸々の特徴が良くも悪くもごそっと塊になって存在している、そんな認識を持ちました。

河内パフォーミング・アーツについての価値観が、国や地域によって異なるということなんだと思います。

山下残氏によるワークショップ

エコル・ドゥ・ダンス・コンタンポランで開催された山下残氏によるワークショップの模様(2017年)

祭りの機能を回復させる劇場の役割

河内劇場や、あるいは芸術祭の役割というのは、その場に人を招き入れることなんじゃないかと思っていて、そのなかにはアーティストや観客はもちろんのこと、メディアや、資金を提供してくれる人、僕のようなスタッフまで、様々な人々が含まれていますが、そこで上演される作品というのは、本来誰のものでもないと思うんです。先ほど手塚夏子さんの話が出ましたが、以前BONUSで関わらせていただいた時に感じたのは、手塚さんの頭のなかで考えていることが、彼女の活動にシンプルに顕われているということで……。何かの条件に縛られていないある種の自由さというのは、人が集まる場所をつくろうとするときにとても価値があることなんじゃないかと。だから、そういったことがキュレーションに担保されていることが望ましいんじゃないでしょうか。

木村そう考えると、僕たちは手塚さんの本気をまだ見ていないかもしれませんね。潤沢な資金をアーティストに提供して、じっくりと単年規模ではなく、やりたいだけやりたいようにやってもらう、みたいなことを劇場や助成団体が進めていくような意識改革が起こるといい、ということですよね。

河内僕たちの生活のなかに、本質的に芸術に触れる機会というのが、あまりないような気がします。僕は大学まで14年間サッカーをやっていたんですが、そのときの仲間にはコンテンポラリー・ダンスを観たことがないっていう人がほとんどで、彼らから見れば、僕がやっている仕事というのはそもそも存在しないに等しいんですが、でも思い返せば、サッカーの試合の前にチームで円陣を組んで瞑想したり叱咤することも、言わば勝利の女神を召還する儀式のようなもので、演劇的な行為だったと言えなくもないと思う。それでも試合には負けたりするんですが、円陣を組んでいる時は最高の気分なんです。形は違えど、そういう気分のよい場を求める気持ちは誰しもあって、それが地域のお祭りや催し、芸術祭とかに向けられることもあるんだと思いますが、オリンピックもスポーツの祭典だったと思うのですが……、なんだかどんどん商業化というかエンタメ化されて、刹那的な癒しになっているような……。

木村刹那的ですよね。

河内人が集まって意見を交わしたりとか、協働で何かするとか、そういう場としての劇場だったり、そういうことを伴った鑑賞体験にならないかな、と思っています。アゴラの観客のなかには、個々の作品を単発的に観に来るというより、継続的に訪れるリピーターの割合いが多いようですが、彼らの日常生活のなかでは話相手を探しに来ているような感じがあるんじゃないでしょうか。それはポップアイドルのコンサートに行くこととは少し違っていて、公演が始まるとふらっと来て、観終わったらワイン片手に誰かと話す。一人で観に来ていても話し相手に困らないのはケベコワ気質なのかもしれませんけど。パロール・ド・アーティスト(アーティストの言葉)といって、上演後に作家が客前に出て質疑に応じる時間が設けられるんですが、客席から感想や質問や意見までどんどんと出て、ああだこうだとやっているんですが、その様子をみていて気づくのは、劇場は決して特権的な場所ではなくて、誰でも自由に出入りできるということなんですよね。

アフタートーク

アフタートーク

木村渋谷ハロウィンの騒動、車を倒すだけでは祭りにならないわけです。神輿担ぐつもりでやったんですよね、と彼らはいうけれども、そういう個人の思いだけでは祭りにならない。コミュニティの意識というか、自分一人で生きているわけではない、自分は目の前の誰かとつながっているんだという意識が必要なわけです。アーティストに何言っても理解されない、聞いてもらえないと思えば、アーティストに話しかけないですよね。この人と自分とは一つの共同体のメンバーであって、僕が何か言うことがこの人(目の前のアーティスト)にまた社会に何か作用するって思えていないと、アーティストと話すっていう行為を引き出せませんよね。

河内みんなで車をひっくり返すというのは、その時は盛り上がるんだと思いますが、コミットメントもデタッチメントもないですよね。震災のあった年に、渋谷でChim↑Pomがやった「神話」を使ったパフォーマンス(?)は、いろいろな意味でリスクがあったと思うのですが、それでも彼らを駆動させたのは、未来を描く勇気と、アートへの愛情だったのではないかと思っています。報道のされ方は、ハロウィンも神話も同じようなトーンだったと思いますが。

木村そうか、河内さんそういうこと思っているんだ、面白いな!渋谷といえば、Chim↑Pomが渋谷のネズミで黄色いキャラクターのネズミを作って、その場に潜んでいたものを暴いたわけですよね。そうしたこととかと渋谷ハロウィンの行方知らずの熱狂みたいなものが何やら緩やかにつながっているみたいなことを感じられれば、私たちはこれまで話してきたことにつながる何かを見たと言えるのかもしれませんね。

河内そういえばAokidさん(過去BONUSに出演)が出ていた「にんげんレストラン」はご覧になりましたか?

木村僕は桜井圭介さんが企画した「歌舞伎町ダンスクロッシング」を見ましたよ。歌舞伎町という街のパワーを、そのままだと錯乱しているのを、アーティストたちが整流しながら自分の力にしていくというところに一つ視点があったイベントでした。ともかく歌舞伎町という街自体がすごくクレイジーなので、このクレイジーさをちゃんとうまく維持できていけたら、それを救いにしていけるだろうなと思いました。

河内僕は学生時代から歌舞伎町で飲んだり、喫茶店のDUGとか、花園神社とか、今でもたまに行くのですが、実はあまりよくわかっていないんですよね。あのあたりのこと…。ダンスを創るときに、作品のなかにだけじゃなく、それをやる場所にも目を向けようとしているアーティストは、BONUSに参加された方々のなかにも、たとえば捩子(ぴじん)さんとか篠田(千明)さん、contact Gonzoの塚原さんがいますね。僕自身、モントリオールでの生活も残り2ヶ月となりましたが、この1年間は、実際にここで生活している人々に交じって、自分のこれからの生き方などいろいろ考える時間になっていると思います。

木村思いがけず、河内さんと祭りや都市をめぐる大きなテーマの議論ができました。河内さんのような舞台を裏で支えている方の言葉が、世の中に発信されていくことはとても意義があることのように思います。舞台監督も舞台芸術にとって自由ようなプレイヤー(作り手)に間違いはなく、そのことはアーティストたちはよく知っているのですが、世間にまでそのような理解が深まっているとはいえないでしょうし、批評家を称する人たちを鑑みてもその理解に大きな違いはないものでしょうから。本日はありがとうございました。

河内ありがとうございました。

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