「連結クリエイション」は、過去の傑作と連結することで、今日の作家たちがフレッシュな創造性の地平をひらいていくためのプログラムです。
2015年の3月から10月にかけて、BONUS「連結クリエイション」では上記のテーマでBONUSが依頼した作家に制作を依頼します。依頼する作家は目下のところ、3名です。(依頼順)
- 室伏鴻(舞踏家)
- 高田冬彦(美術作家)
- 市原佐都子(劇作家)
今後、3人を紹介するページやクリエイションのプロセスを公開するページなどを展開していきます。
またこのテーマにちなんだ「りみっくす・おぶ・ふぉーん」の公募を行います。「りみっくす・おぶ・ふぉーん」における上位受賞者には、10月に開催予定のイベント「BONUS 超連結クリエイション」に出演してもらいます! そして、日本女子大学の木村ゼミの学生たちが〈『牧神の午後』と性愛〉というテーマを掘り下げる企画も同時並行で行う予定です。
『牧神の午後』は約100年前に初演された前衛的なバレエ作品です。
さて、みなさんはこれを解釈してどんなダンスを映像で制作しますか?
このテーマから「バレエ作品だからバレエダンサーしか踊れないな」などと、思わないでください。ニジンスキーが踏み出した一歩、この面白さを借りて、なにか別の面白いものを作ってみようじゃありませんか! ここは「作品」というよりは「アイディア」を呈示し、競い、シェアする場です。面白いアイディアを思いついたら映像に収めてください。
BONUSから、解釈する際の参考としてさしあたり2つのポイントを、ざっくりあげておきます。
(今後このテーマをさらに掘り下げるレクチャー動画などを制作する予定です。とはいえもちろん、多様な解釈がありえるはずです。独創的な解釈を普遍的なアイディアへと発展させてみてください!)
ポイント1
破廉恥な見せ物か? 新しい芸術か? 性愛をめぐるダンス
ディアギレフ率いるバレエリュスが1912年5月29日にパリのシャトレ座で発表したこの作品は、20世紀最大のダンサーとも評されるワツラフ・ニジンスキーが振り付けし、また主演したことで知られています。ニジンスキーにとってデビュー作であった本作は、フランスの詩人マラルメが書いた詩『牧神の午後』(1882年)が発端となり、その前奏曲としてドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』(1894年初演)を作曲し、といった触発の連鎖から生み出されたものでした。この作品は、初演時、賛否両論の熱狂とともに迎えられました。上の動画を見てもらえれば、もうお分かりと思います、古代ギリシアの神話的な世界を舞台に、牧神が川辺で水浴びに来たニンフたちと出会うというシンプルなお話がベースとなっていますが、そこで展開されたのは、男性の性的な欲望の発露でした。
例えば、激烈な否定として、次のような批評が新聞に載りました。
「この見せ物に対して芸術とか詩とかいう者はわれわれを侮蔑するものである。この見せ物は牧歌でも深遠な作品でもない。われわれのまえにくり広げられたのは、色情的な野獣性と甚しい破廉恥なしぐさの、なんの価値もない動きをみせる、下品な牧神であった。われわれが非難するのは、前から見ても見醜く、横から見ると一層醜い、不格好な動物の体の、あまりにもわざとらしいパントマイムなのだ。本当の観客ならば決してこのようなものを受けいれはしないであろう。」
(原文ママ。フィガロ紙に掲載されたジャーナリスト、カルメットの批評。石福恒雄『肉体の芸術』pp. 80-81)
「下品な牧神」の「あまりにもわざとらしいパントマイム」と、完膚なきまでの批判ですが、これに対抗するように彫刻家ロダンはこう擁護します。
「彫刻や絵画においてと同じように、おどりにおいても、飛躍や進歩は、慣習や偏見によって、また怠慢や、創造への無力さによって妨げられてきた。われわれがロワ・フラーやイサドラ・ダンカンやニジンスキーを称賛するのは、彼らが本能の自由を再発見し、自然への愛と畏敬に根ざした伝統の真髄をふたたび見出したからである。だからこそ、彼らは人間の魂の感動をすべて表現することができるのである。彼らのうちでも最後にやって来たニジンスキーは、肉体的な完璧さ、調和のとれた均衡、もっとも多彩な感情を表現するために自分の体を駆使する非凡な力をもっているという点で明らかに優っている。(中略)体を延ばし、折り曲げ、かがみ、うずくまり、体を真直ぐに正し、ときにはゆっくりと、次の瞬間には痙攣的にいらだたしく、角ばって体を動かしながら、彼の目はさぐる。彼は腕を延ばし、手を握ったり開いたり、頭を後にそらしたり、もとにもどしたりする。彼の身振りと体格の調和は完璧である。彼の体は心のままを表現している。彼の体は、自分が生命を与えている感情を完全にあらわし尽くしているため、一つの性格そのものにまで達している。彼はフレスコや彫刻の美しさをもっている。彼はすべての彫刻家や画家の憧れていた理想である。(中略)私はシャトレ劇場に集ったすべての芸術家が、この美の舞台に学び、それを理解するよう望んでやまない。」
(原文ママ。同上、pp. 81-83)
ちょっと長く引用しましたが、ここにあるのは彫刻に比すことの出来る芸術である、こうロダンは断定しつつ、ニジンスキーのダンスに新しい芸術の模範を見ています。この新しいダンスは「本能の自由を再発見し」「自然への愛と畏敬に根ざした伝統の真髄」を見出す。そして、ひとびとはここからそれらを理解しまた学ばなくてはならない。そう、ロダンは語ります。
破廉恥な見せ物か? 新しい芸術か? これは今日のぼくたちがこの作品を見る時にも、同じように感じる疑問なのではないでしょうか?だからこそ、この作品をいま取り上げるべき価値があると思うのです。
昨今、芸術表現と性愛との関係あるいは芸術表現における身体の露出の是非が話題になっています。ろくでなし子の逮捕にまで至る騒動などは、いまだ決着がついたとはいえません。芸術は身体とともに性とどう向き合うことができるのか? そして、それをどう映像化できるのか? この問いが、100年前のニジンスキーからぼくらに投げかけられている、と捉えてみてはいかがでしょうか。
また、そもそも今日のセクシュアリティは多様化しており、複雑化しています。ヘテロセクシュアルの男性的な欲望(牧神)とヘテロセクシュアルの男性的な欲望の対象(ニンフ)が衝突するという『牧神の午後』の関係性を、今日の多様なセクシュアリティへ目配りとともに読み替えていくだけでも、新しい『牧神の午後』が生まれそうです。
ポイント2
古代ギリシアの壷絵やレリーフから着想したダンス 身体を拘束する方法
さて、先にあげたようにロダンはニジンスキーのダンスに「フレスコや彫刻の美しさ」見ました。それにはひとつ理由があります。つまり、ニジンスキーはこのダンスを発案する際に、古代ギリシアの壷絵やレリーフをルーブル美術館に鑑賞しに行っていたといわれています。あの独特な横向きの振り付けには事実として「フレスコや彫刻の美しさ」にインスパイアされたという背景があるのです。このことはひとつに、より広く捉えてみれば、ダンスは絵画や彫刻から生まれる可能性がある、ということを暗示しています。実際、暗黒舞踏の創始者土方巽は、『美術手帖』や『みづゑ』などの美術雑誌から絵画の図版を切り取り、ノートに貼付けて、彼独特のダンスのインスピレーションにしました。舞踏譜と呼ばれています。ぼくたちも試しに、現在の『美術手帖』に掲載されている美術作品の写真からダンスを着想するという実験を、やってみると良いのかもしれません。
またこのことは、より狭く捉えれば、古今東西の美術作品のなかで、とくに古代ギリシアの人物像の美しさにニジンスキーが魅了された、ということでもあります。ゆえに、あの横向きの振り付けが生まれたわけですが、そのことを重視して、カナダの振付家マリー・シュイナールは『牧神の午後』を彼女らしく解釈しています。
太もも周りを太くしたり、牧神らしい大きな角を生やしたりと、コスチューム面でも興味深い試みがありますが、何よりもこのくねくねとした動作にシュイナール流「牧神」の特徴がありますよね。このくねくね感は端的に「官能的」なジェスチャーといえますし、いや、端的に官能性を見る者に喚起する力があります。しかし、いま注目したいのは、くねくねというよりもくねくねした動きが舞台を並行して走る線の上に完全に拘束されているということです。舞台に奥行きがないかのように、ダンサーは前後に進まず、横に移動します。しかも横向きをキープした状態で。
この自由を削いだ、横向きという限定には一旦どんな力が秘められているのか。様式の統一感が引き起こす美しさ? そういう見方もあるでしょう。しかし、これはもっと強烈な出来事だったようです。例えば、1917年にイタリアの未来派マリネッティは「未来派的ダンス宣言」のなかでニジンスキーのダンスを「純粋幾何学」と呼んでいます。「ジェスチャー」(意味を伝達するための身振り)から解放されたというだけではなく、しかも、その幾何学的純粋さ故か、性的な刺激のないダンスとさえ捉えています。もちろん、これは『牧神の午後』に対してというよりは広くニジンスキーのダンスへの評価なのですが、それにしても「純粋幾何学」といういい方には、身体への拘束に対する強烈さが観客の心や体を揺さぶっていたということが示唆されています。後に、暗黒舞踏の創始者土方巽もニジンスキーに言及していて、鋳型で出来たプラスチックの人形のごとき身体性をダンサーの技術によって生み出すのがニジンスキーのダンスであると考えていました。こうした身体へ向けた「拘束」の試みがダンスを生むとしたら、みなさんなら、どのような拘束の方法を編み出しますか?