2015/06/02

Date | 2015年4月9日 |
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From | 木村覚 |
To | 高田冬彦 |
高田冬彦さま
今回は、『牧神の午後』のとくに「性愛の表現」に焦点を絞って、メールしたいと思っております。
日本人の研究者による代表的なニジンスキー論に、鈴木晶の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)があります。この本を繙いてみると、『牧神の午後』について考察する章で鈴木は、この作品と性愛の関係について次のように鈴木自身の見解をまとめています。
小説家の処女作がたいてい自分の体験を描いたものであることは周知の事実だが、〔『ディアギレフのバレエ・リュス』の著者リン・〕ガラフォラは、「多くの作家にとっての処女作と同じく、『牧神の午後』は思春期の性の目覚めを描いた作品である」という。その性の目覚めとは「異性愛の発見」である。ディアギレフとの同性愛者としての生活では満たされなかった異性への欲望を表明しているのだ、とガラフォラはいう。しかも、ついにニンフを陵辱することなく、ニンフが落としていったスカーフでマスターベーションに耽るというのは、広く一般に解釈されてきたように、ニンフに逃げられてしまったため、スカーフで我慢する、つまりスカーフをニンフの代理品にするというのではなく、女性の誘惑にのらず、自分の純潔を守ったことを意味しているのだという。
私も同じような解釈を考えていたので、ガラフォラの本を読んだときには、この人も同じようなことを考えているんだなと思ったものだが、私にいわせれば、もっと重要なのは、ニジンスキーが原始性を前面に押し出すことによって、性を、それまでには例のないような生な形で表現したということである。
(鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』pp. 196-197)
まだガラフォラの著作を読んでいないので、この引用から類推するだけなのですが、ガラフォラは『牧神の午後』の内に、同性愛者ニジンスキーのアイデンティティの揺れを見ています。異性愛へと心ひかれた同性愛者(?)が「女性の誘惑にのらず、自分の純潔を守った」というのです。
鈴木はこの説に対して丁寧な根拠を呈示してはおらず、ただ自分と同じ解釈だといっているのですが、この説、ちょっと分かりにくいところがあります。なぜ同性愛者が異性に心ひかれるのか? ぼくは同性愛者ではなさそうなので、ことの真相が分かりかねるのですが、同性愛者が異性愛の誘惑に負けまいとする、という理屈が理解しづらいです。「純潔を守った」としても、スカーフでマスターベーションするわけですから、誘惑に屈したととることもできます。そもそも、同性愛者が異性愛のストーリーに自分の(同性愛的)心情を重ねるということは、大いにあることなのではないでしょうか。ガラフォラの説の背景にあるのは、同性愛者ニジンスキーがなぜ異性愛を取り上げるのかという疑問だと思うのですが、見方を変えれば、これは異性愛の衣を借りた同性愛の物語かもしれません。また、そもそも100年前に、あからさまに同性愛を表現している舞台というものが上演できたのかということは疑問です。それに、同性愛者だからといって、異性愛をテーマにできないとも限りません。
BLを読む女性たちが、男性同士の恋愛を読みたがるからといって、男性への性転換を希望するひとたちばかりではないでしょう。むしろそういうひとは恐らくきわめて少数で、たいていの女性たちは自分の性愛アイデンティティを直接反映させることなく、男同士の恋愛を端で楽しんでいるわけです。
ぼくが『牧神の午後』を面白いと思う点は、バレエというものが基本的には、見られる女性ダンサー/見る男性観客という対関係がありながら、男性ダンサーが主役になることで、その対関係がかく乱されてしまう、というところにあります。あえていえば、ここで起きているのは、女性への性的な欲望を宿す男性観客がひょいと舞台に上がってしまっている状態ですよね。牧神は水浴したい乙女たちを見る男です。この男は普段は客席の暗がりに隠れているのですが、この舞台ではこの男が舞台に乗ってしまっている。『牧神の午後』がスキャンダラスだというなら、この事実こそそうでしょう。
牧神を観客の代表として考えるというのはどうでしょうか。女性を対象にマスターベーションしているというだけならば、確かにこの男(牧神)にたいした特殊性はないかもしれません。けれども、この男を〈舞台に上がってしまった男〉として捉えるのならば、特殊な状況があらわれてきます。
さらにここにアイディアを盛り込むと、映像が牧神の主観ショットで構成されている、というのはどうでしょうか。この男は、舞台上で展開されるイリュージョンに憧れる男たちの代表として、望んでも叶わぬはずの乙女たちの世界に、思わず入り込んでしまった。けれども、そこでは、自分が望んでいるようなストーリーが展開するはずもなく、乙女たちから「キモ」がられている。「キモ」がられているけれども、乙女たちと共存している嬉しさも隠しきれない。そうした心情が主観ショットで展開されてゆく……そんなイメージが浮かびました。
どうでしょうか?
木村覚

Date | 2015年5月26日 |
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From | 高田冬彦 |
To | 木村覚 |
木村覚さま
前回からだいぶ時間が掛かってしまいました。すみません。
今までは客席で舞台を見る側だった男が舞台に上がってしまう、という話、興味深く読みました。
異性愛の誘惑のくだりは、ニジンスキー本人の性愛アイデンティティを知っていなければできない分析で、ちょっと作品そのものだけからは伝わらないよなあ、と思いました。でも、同性愛的な視点が介在することで、〈舞台に上がった男〉がバレエに登場したという経緯は面白いですね。
最後の方に木村さんが提案されていた、“牧神の主観ショットの映像”をどういうふうに展開させたら僕らしい作品になるか、悩んでいました。僕はこういう、AKBのおっかけのおじさんのような心境がイマイチ理解出来ないのでどうも盛り上がらず……。単に乙女を追っかけていては、キモいだけの牧神になってしまい、この作品のエレガントな雰囲気が出ません。何かしかけが必要かと。
そこで以下の様なイメージが浮かびました。僕のアイデアノートのイラストも恥ずかしながらご覧に入れます。

1ページ目は、ニンフ達を盗み撮りしているシーンです。でもニンフ達は鏡を取り出し、醜い牧神の顔を映し出します。
2ページ目下の、ポンデリングみたいなのは、牧神の股間の膨らみのつもりで描きました。乙女を覗いて膨張した牧神の股間が、催眠術のようにぐるぐると回り始める、というイメージがなんとなく湧きました。三人の乙女は、鏡を持って、その回転する股間を映し出します。下劣な牧神の視線を跳ね返すのです。鏡の位置で、乙女が勃起しているようにも見えますね。


3ページ目では、複数人の乙女が鏡を持ち、牧神の像を映しています。醜い自分の姿を見せつけられて、牧神はショックかと思いきや、むしろ自分の醜さにうっとりと酔いしれ、踊り始めます。もはやニンフ等眼中になく、自分の姿しかみていません。牧神の自撮りのダンスに合わせて鏡を移動させる気の毒なニンフ達。彼女達の動きも、一種のダンスのように見えてくると、面白いと思います。
こんな感じでいかがでしょうか? つまり鏡をはさむことで、好色な視線をナルシシズムに変換させるというわけです。実際に撮影したときに、この鏡のダンスがどれくらい上手く映るかは未知数ですが、試す価値はあるかもしれません。
高田

Date | 2015年5月29日 |
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From | 木村覚 |
To | 高田冬彦 |
高田さん
メールありがとうございました。ややムチャブリな感のあるメールを送ってしまいましたね。でも、ご一考くださり、感謝いたします。
3枚のどのアイディアもとても面白いと思いました。見る/見られる関係のなかで、ナルシシズムが暴走していくという高田さんらしい展開。そこに、ニンフと牧神をアイドルとファンになぞらえつつも、そんなところに収まりつかない状況に発展していくのが、イメージするだけでもわくわくします。
おそらく「ビデオカメラ」と「鏡」という〈映す〉機能にどのような意味合いを込めていくかで、内容が更に濃密になっていくような気がしました。また、鏡を使う代わりにiPadだとどうだろう? とちょっと思いました。単純に、iPadだとズームが出来るので、牧神の身体をいかようにもズームアップして切りとることが出来そうだなと想像したわけです。
木村覚