2015/11/02
市原佐都子さんと「牧神の午後」を解釈するクリエイションを進めているうちに、動物の性の営みと人間のそれとはどう違うといえるのか、という話になって、このことをもっと詳しく知るには誰にきいたらいいのだろうか……と二人で思いめぐらしているうちに、二人の頭に飴屋法水さんの顔が浮かんできました。飴屋さんは演出家・美術家として知られていますが、同じく『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか』の著者としても有名です。猛禽類とともに暮らした経験についてお話を聞くことができたら、きっと考察は進むはずだと二人は考え、相談すると、飴屋さんは快諾してくださいました。実際、飴屋さんのお話には、実際は猛禽類との暮らしを伺うだけに留まらない、きく者の思考を根本的に切り替えてしまうような、丁寧な観察と考察に満ちていました。
以下にまとめたのは、2015年10月7日に飴屋さんのご自宅に伺って、市原さんと私木村とでお話をきいたその内容(音声)と、それをあらためて音声ファイルできいて市原さんが書いた文章とで構成されています。
飴屋さんの演劇をまだ少し寒いとき観て、「ニンゲンはコトバをつかうようになって生きるのが似合わなくなった」たぶんそういうような台詞があって、心に残っていた。
私はマックで、マックと言うのはマクドナルドで、パソコンで、パソコンはマックではなくて、台本を書きます。コトバを、こねくりまわして、夜な夜な深夜のマクドナルドでつむぎ出す台本。こんなコトバは、へんな、無理をしている、偽物みたいな、このチーズバーガーになると思えてくる日々だったからかもしれない。
いろんな話があって全部おもしろくていろんなことを感じたのですが、全部ここで文章にするのは大変なので、短めに少しだけ書きます。
飴屋法水さんのお話(1)
1
飴屋さんとフクロウの話。どう見てもぜんぜん違うのに自分のことニンゲンだと思わされてしまう動物は、かわいそうなのかもしれないけれど、そのアバウトな視覚、ある意味ニンゲンよりある意味、劣っているから起こせるミラクルって感じがする。フクロウが飛び越えているようで、ニンゲンもフクロウに仲間だと扱われることで飛び越えさせてもらえる感じ。
最後の音声で、「目の前にいない対象にむかって射精ができるのはたぶんほとんどニンゲンだけ」ということを言っていたのですが、動物も狩りの真似事の狩猟オナニーとかはするそうだけれど、一人で射精まで起こせるのはたぶんニンゲンというのは、これはニンゲンのミラクル。
ほとんどの牛が人工授精で産まれて粉ミルクを飲んでいるというのはへん、お母さんの立派なおっぱいを横目に、哺乳瓶でミルクを飲んでいる仔牛が頭に浮かび、ちょっと笑える。
飴屋法水さんのお話(2)
2
飴屋さんは現実、果て、を知ってるのだなっと、思った。やっぱりフクロウはフクロウで。殺されるときフクロウは自分のことニンゲンではないと気付いたのかなあとかわからないまま嘘の中で死んでいったのかなあとかとか思った。自分の演劇の『いのちのちQ』で「私ただのイヌなのだわわわ」というジョセフィーヌを思い出した。
飴屋法水さんのお話(3)
3
私はもう交尾というコトバを知っている。発情期がくる前から知っていた。教科書やテレビや友達の話で。発情した猫が鳴いている。猫のDNAには交尾のことがかかれている。でも交尾というコトバを知らない。もうニンゲンは猫のように交尾に出会うことはできないと思った。できるはずだけど。
「だれでもいい」「同種ならだれでも発情可能」ということをあの後も考えているけれど、私はやっぱりそう思えない感じで、だんだん女の子がよくする会話みたいなこんな人は嫌だなあってことを思いめぐらせて、まず不潔な人はいやだなあとか、ガリガリの人はいやだなあとか、私ニンゲンと思った。
悩んで悩んでこの世の終わりみたいに思えた夜、次の日の朝には生理がきてもやもやが消えている、なんだ生理のせいだったと分かり、がっかりするようで救われる。イライラして喧嘩をして、ご飯を食べるとほっとしてお腹が空いてただけだと気づいて、やっぱりがっかりするけど救われる。ニンゲンも複雑にみせて単純だったりする、でもやっぱり複雑に、不自然なへんな感じになってしまう。私たちはへんだな。木村さんが人生一回しかないからなんか社会的なこととかに縛られずに生きれたらいいな、みたいなことだったかな、ざっくりそんなことをちょっと言ってた。私たちはニンゲンでニンゲンの世界に生きているという当たり前のことを思った。
文:市原佐都子